平安時代から戦国時代に至るまでおよそ500年にわたり安曇を支配してきた豪族・仁科氏に関わる館跡を巡った。
仁科氏の出自についてはいくつかの説があって明確ではない。一説によれば奥州の阿倍貞任が逃れてきたのが始まりだといい、
また、大和の古代氏族の阿部氏の一族が姫川を遡って入って来たという説もある。
安曇族との関係についても諸説あって、興味は尽きない。
仁科宗一郎著「安曇の古代(仁科濫觴記考)」における仁科氏と何らかの関わりが発見できないかと期待を抱きながらの史跡巡りだった。
@ 館之内仁科氏居館跡
「長野県町村誌」には往古高根伊勢守の城跡だとあり、仁科姫の名がある鏡が発掘されたともある。
「仁科濫觴記」では仁品王の21代の末裔に高根伊勢守の存在があり、
さらに「信府統記」では穂高の貝梅城を築き、穂高神社を創建したのが高根伊勢守だという記述もあり、
その関連性に大いに興味があるところだ。
ここに安曇氏が絡んできたりして仁科氏を巡る謎は尽きることが無い。
館之内の高見から木船城を望む
館跡の痕跡を探して集落内をあるいたが、これぞ痕跡だと読み取ることは甚だ困難で、
僅かばかりの段差や溝で区画された平坦地に、集落内のくねった道などに面影を偲ぶしかない。
公民館とその裏手墓地の辺りは高見と呼ばれ、名前の通り監視場所と考えられ、
西方の大町方面や東南の木船城が見渡すことができる。
南西の隅には竈神社が祀られているのは裏鬼門ということだろう。
A 古城館跡(松崎古城跡)
館之内館の北方700mの段丘上に古城館跡がある。
西側から続く段丘を断ち切るように掘り下げて北側に堀を作り、その土を盛り上げて土塁を築いている。
北東の隅の土塁は逆L字形で土塁上は墓地となっている。
虎口の土塁
東南の隅にも土塁があって虎口を扼すような形になっており、土塁上は現在は墓地だが、十分なスペースがあり櫓が築かれていたと思われる。
郭の内部
河岸段丘の最北端角の立地を活用して、西側を段崖で、北と東、南を堀と土塁で固めた郭の内部は広大で現在は農地となっている。
館之内館と同様に四郭からなっていたというが、一部に土塁の痕跡が残るのみで往時を偲ぶよすがもない。
郭跡からは大町の市街地と北アルプスが展望できる。
B 仁科氏居館跡(仁科城址)
「仁科濫觴記」によれば」崇神天皇の末子・仁品王が従臣を引き連れて大和から下って御所を構えたのがこの場所とされている。
しかし通説では、社の館之内館に居た仁科氏は勢力を拡大するとともに鎌倉時代にこの地に本拠地を移したとされる。
仁品王の御所時代と鎌倉時代とでは1200年以上もの時間差があるので、仁品王の御所説を俄かには信じがたいが、
逆に時間差があることで神話的な故地に帰還したと考えられなくもない。
北堀の跡
鎌倉時代に造られた居館ということで、堀や土塁にしても防御施設としてはさほど強固ではない。
専ら支配領域を取り囲む一族や家臣によって築かれた大小の山城による防衛線の構築に力を注いだものと思われる。
北に詰城として木崎湖の畔の森城、東は館之内館の近くの木船城や丹生子城、西は西山城、
南には支族の日岐氏、渋田見氏、古厩氏、堀金氏などを配して備えとしていた。
天正寺
天正寺というからには武田氏が滅びた天正年間に創建されたはずだろうということで、すぐに思い浮かべたのは仁科信盛だ。
謀反の疑いで信玄に誅殺された仁科盛政の跡を継いだ(乗っ取った)信玄の五男で、織田勢の猛攻を受けて高遠城で自刃した武将だ。
盛信は高遠城の戦いに仁科の将兵を率いていかなかったようで、武田家滅亡に際しても家臣団は無傷で残ったとされ、
天正寺建立はそうした家臣たちの感謝の念の表れだと、今まですっかり思い込んでいた。
しかし、実際には青龍山(盛政の法名)天正院ということで盛政をはじめとする主家の人々の菩提を弔ったものという。
盛政が誅されたのは家臣が反武田の動きをしたからだということで、家臣たちも寝覚めが悪かったのだろう。
2016年4月1日