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小平漁協のフォト日誌

史跡に怯える<丹波山村丹波川>

 釣友たちはいずれも都合が悪く、しからば単独行と早々決意したものの、海にすべきか、渓にすべきか、 寝床の中までウダウダと決めかねていたが、目が覚めた時にフト心に浮かんだ渓、丹波川の黒川谷を目指すことにした。
 丹波川と泉水谷の合流地点から数百メートル上流の右岸に流れこんでいるこの谷は、流れこみ口に土砂が堆積しているため、よほど注意して見ないと見過ごしてしまう。谷というより沢といったほうが相応しいかもしれない。この谷の奥に武田家の軍資金総額48万両を産出したという信玄の隠し金山の黒川金山があったという。その最盛期には黒川千軒と呼ばれた鉱山町がこの山中にあったというのだ。かって二度ほどこの沢の遡行を試みことがあるが、二回とも入り口付近の何段目かの落ち 込みでイワナを獲ただけで、餌切れのために、それ以上の遡行は途中で諦めてしまった。今回は最初からこの黒川谷を可能な限り遡行して見ようと思い立ったのだ。
 泉水谷の入り口にもあたる三條河原付近は既に釣り人の姿がチラホラ、河原ではカップルが焚火の準備をしている。三條河原という名称自体、金山との関係からか何やら曰く因縁ありげだ。ほとんどの釣り人はこの三條河原付近に車を停めて泉水谷に入るが、この川が初めての人はそのまま本流を遡行して300メートルも行くとすぐに通ラズに遮られて引き返してくるハメになる。釣り人が多いと上を目指す人と引き返してくる人とが川の中で鉢合わせとは相成る。遡行している人は思わず眉を逆立てるが、すぐに自分も同じ道を歩むことになる。そんな釣り人たちと擦れ違いながら言葉を交わすが、当然のことながら芳しい釣果はないようだ。いづれの釣り人も黒川谷には入らなかったと聞いて安堵する。
 黒川谷の入口を少し入るとヒンヤリした冷気を感じてバンダナを首に巻く。かってイワナが飛び出てきた落ち込みからは何の反応もなかったが、その落ち込みを跨いだ倒木にビッシリと重なり合ったウスヒラタケの群生を発見。 思わず手に取って香りを臭ぐ。甘い上品なキノコの香りだ。毒キノコのツキヨタケに似ているが根元の黒いシミの有無で簡単に判別できる。 帰りに採集することにして雛壇状の沢を登りはじめた。


 先日、書店で「佐渡金山」というタイトルの文庫本を見つけて、懐かしさの故か思わず購入してしまった。 東京に転勤する前は新潟で営業をやっており、佐渡島も私のテリトリーだった。 某新聞やグラフ誌の広告特集の募集で年に7〜8回は出張した。 佐渡金山で水替人足として酷使された無宿人や遊女の悲話、流人の哀史、 それらの物語や史蹟を観光ネタとして何度も繰り返し取材し紹介してきた。 しかし、この本を読み進むにつれ、自分の知識としてあったそれらの哀史や悲話が生半可な観光気分によるものでしかなく、 実際には想像以上に苛酷な多数の事実に基づくものであったことを今更ながら思い知らされ身震いする思いだった。 そういえば佐渡金山を本格的に開発したのは江戸幕府の金山奉行の大久保長安だが、 武田家滅亡後の黒川金山の経営を任かされたのも奇しくも彼だった。  
                  
 武田家の滅亡とともに金山の在りかを秘匿するために遊女が多数殺害されたと伝えられる「おいらん淵」も本流の上流にあったりして、黒川金山も佐渡金山同様のおどろおどろしい物語があったのだろう、いやあったはずだ、という考えに取りつかれはじめると、今踏みしめている岩や周囲に見える崖が巨大な廃墟に見えてきて、けっこう不気味な雰囲気にビビリはじめてしまった。恐いものみたさに足だけは登っていくが、こうなると釣りはもはやうわの空。惰性で登るうちに何ということな い岩の上で足を滑らせてスッテンコロリ。魚篭がクッション代りになって痛打は免れたものの、まかり間違えば大怪我をするとことだった。これを潮に納竿、ほうほうの体で谷を駆けおりて本流に戻る。
 黒川谷から眺めた本流がなんと明るく暖かく見えたことか。倒木に咲き乱れるように群生していたウスヒラタケはおいらんの精華のようにも思えて採ることを憚った。

 1994.6.11 山梨県丹波山村丹波川黒川谷

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