双体道祖神は安曇野だけの専売特許だと思っていたけど、群馬県内を走りまわっていると
けっこう彼方此方にひっそりと佇んでいたりする。とりわけ旧倉渕村の道祖神には惹かれるものがあり、
道祖神巡りを楽しむことにした。
その道筋で見つけたのが長野業盛の妻の藤鶴姫伝説に関わる小さなお堂。
お堂の裏手に隠れるようにして藤鶴姫の墓所があった。由来の説明看板は薄汚れ、
入口に建てられていたはずの大きな案内標識が墓の後ろに打ち捨てられていた。
お堂の庭先の石塔が並んだ片隅に古めかしい双対道祖神があった。
こころなしか互いにそっぽを向いているようだ。
箕輪城主長野右近之進業盛夫人藤鶴姫は上杉家の娘として生まれ幼名を「つる代姫」と呼び、
たぐいまれな美貌の姫でした。
歳の春城主業盛夫人となり民衆政治を志す業盛をたすけ貞淑の誉高く
その美しさと優しさは箕輪の花と仰がれ平和郷の光でありました。
時は戦国乱世の真只中、天下制覇の野望にもゆる甲斐の武田信玄は要衝箕輪城の攻略をはかり
上野に大軍を進め猛攻を加え激戦数か月、長野方は衆寡敵せず無念にも落城、
城主長野業盛は夫人藤鶴姫を越後上杉家に逃し自刃いたしました。
姫は夫の遺志をつぐべく従臣数名と共にひそかに途を三の倉街道にとり、途中の藪をきりひらき、
当地高野谷戸までたどりつき小憩いたしました。
と、はるか南の小坂より我が名を呼ぶ武士姿数名を追手と思い違い
「これをかぎりぞ」と薬師堂内に入り心静かに花の生涯を断ったのです。
時に永禄6年(1563年)6月15日
姫19歳の妙齢。従臣と墓主は姫の御霊をねんごろにこの地に葬祭したのでした。
今でも当初の坂を「かぎり坂」−がき坂―と呼び、南方の落ヶ沢の坂を「ひとこえ坂」と呼び伝えております。
又悲運の姫の墓をけがすと鼻血が出ると言い、厚く礼拝すると美人になると言い伝えられております。