ついでとは言え野沢館だけの訪問では忘れ物をしたような気分で落ちつかなかったので再び佐久を訪れた。
信玄の佐久侵攻の拠点となった前山城を是非見ておきたかった。高速料金1000円というのは嬉しい。
近隣の大井氏との抗争が激化するなかで前山城の伴野氏が武田信虎、
そして信玄の支援を求めたところから武田氏の佐久侵攻を招き、信玄も度々在陣し、度々戦火に見舞われた。
入口の説明看板には、この城で幾多の佐久衆が武田方によって殺戮されたにも関わらず、
そのことについては全く触れられていない。関係者の血脈が脈々と受け継がれている土地柄故か。
そんな殺戮戦があったことが嘘のように本郭から眺める佐久平には田植え前の水田が穏やかに広がっていた。
前山城跡は、蓼科山の一支脈突端に位置し、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一線につらなっている。
北方は断崖の下を中沢川が流れ、東・南の二方は急傾斜で曲輪を設け、さらに尾根筋は掘切りによって防御線を構成している。
鎌倉、室町の両時代を通じて、佐久郡西部に威をふるった伴野氏は、
伴野庄の地頭として当初は野沢館に拠ったが、室町中期にいたって、
詰めの城として前山城を構築し、後には本拠をこの城に移した。
天正10年(1528)前山城は芦田信蕃に攻められ、城将伴野信守は討死に、兵火に焼かれて落城した。
城跡はいまもほぼ旧態を完全にとどめているうえ、焼き米その他の遺物が所どころから出土する。