柏崎の市街地を車で走っていると「琵琶嶋」という町名が眼に飛び込んできた。
なぜか緒方拳の顔が浮かび「宇佐美定満」を思い出した。
信玄の軍師「山本勘助」はその実在性が疑問視されてきた。
しかし、市河家文書に次いで「山本勘助」の実在をうかがわせる古文書が
安中市の旧家で発見されたということで、定説の修正が迫られているとか。
一方、「北越軍記」で謙信の軍師とされる「宇佐美定行」は架空の人物というのが定説。
そのモデルといわれるのが琵琶嶋城主「宇佐美定満」で、外様・譜代衆の第十二位の序列にあったという。
その定満の居城だった琵琶嶋城跡を探し当てたが、
河川改修や学校建設の結果、遺構はおろか城の面影も全く残っておらず、
柏崎総合高校の敷地の片隅の鬱蒼とした木立に囲まれた薄暗い中に城址の石碑が建てられているだけだった。
二の丸と思われる城内で畑仕事をしている人に尋ねたら、東の方にもっとちゃんとした城跡が残っていると教えてくれた。
どうやら北条城のことのようだ。
鵜川は、昭和30年代の河川改修の実施までは、この辺りでは大きく蛇行を繰り返していた。
横山川等の支流の合流点でもあり、周辺の水田も土地改良前には大変な深田であった。
琵琶嶋城は、これらの地形をうまく活かして築かれた平城である。
琵琶嶋城の本丸跡は、江戸時代の記録(白河風土記)に東西40間、南北60間とあり、
ここに農業高校が建設されるまで、周囲を囲う高さ2〜3m・基底部4〜5mほどの大土塁、
東に大手・西に搦手の虎口などの遺構も残っていた。
地元では、この本丸を勝島と呼び、二の丸を福島、金曲輪(三の丸)を琵琶嶋と伝えている。
城主については、江戸時代に宇佐美定祐が書いた「越後軍記」等の軍記物によって、
「宇佐美駿河守定満であり、上杉謙信の軍師」とする説が広く喧伝され、
また、NHKの大河ドラマ「天と地」によって今や定着した感がある。
ここに城が築かれた起源は不明だが、中世越後有数の港湾「柏崎湊」
と「柏崎町」の支配と防衛のために、上杉―長尾家の直領として、
その一族や重心が城主として派遣されていたと考えられる。
資料で確かめられる城主としては、永禄〜天正初年(1558〜1573)は
「琵琶嶋殿(越後侍衆等祝儀太刀次第写)」、
能登出身の「琵琶嶋弥七郎(越国諸士)」の名が見え、
天正12年(1584)には御館の乱の恩賞として「桐沢但馬守具繁」が就任している。
なお、江戸時代に当城は廃され、その後その機能は大久保などの陣屋に移った。