謙信の重臣だった北条高広という武将の名を知り興味を覚えたのは群馬に移住してからのこと。
次々と主を変えて生き延びた戦国武将が多いなかにあっても異彩を放っている高広。その故地を訪れた。
信玄に唆されたか、それとも近隣の同族・安田氏との確執からか、
北条城の主・高広は謙信に叛旗を翻す。
安田景元(隣の安田城主)から北条謀反の報せを受けた謙信は北条城を包囲、
高広は武田の援軍を求めるが雪に阻まれたのか到着しないので降伏。
許されて以後、謙信の有力な武将として活躍しており、謙信の関東支配に当たっては、
厩橋城主として関東に君臨した。
しかし、上野国に後北条の勢力が勢いを増すと今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。
しかし翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、
高広は北条氏政のとりなしで、再び上杉氏に帰参して仕える。
天正2年(1574年)、家督を嫡男の景広に譲って隠居して大胡城へ入り、
天正6年(1578年)に謙信が没すると出家する。
御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが、
景広は戦死し、北条城は開城した。
高広はその後武田勝頼に仕え、武田滅亡でに滝川一益、そして再び後北条に仕えたと言われている。
そんな転変を重ねた武将の名残を求めて、大手口の専称寺側から堀底状の道を登城するが、
遺構らしきものに遭遇するのはおよそ10分ほども登って林道を横断した辺りから。二の丸の土塁や堀切、
本丸の意外な広さや大堀切などに驚嘆した。帰りは搦手側の普広寺への道を下ったが、
こちらの方は急斜面に何段にも削平された郭の跡が明瞭だった。
搦手口の普広寺門前に二列に並んだ六地蔵の表情の人間臭さに暫し見とれてしまった。
室町から戦国時代にかけて、北条毛利氏が築いた山城である。
ここは、鯖石川と支流の長鳥川に囲まれた標高140m地点にあります。
御館の乱において、上杉景虎方の主将であった城主・毛利丹後守景広は天正7年(1579)2月、府中で戦死し、この城も開城した。
城跡の背後、つまり北側は、標高150mから180mの山並みが曽地峠へと約10km続いている。曽地峠の北に赤田城跡(刈羽村)がある。
城址の正面にあたる南側には長鳥川が流れ、外堀の役割を果たしていた。
本丸跡からは安田城・善根城・旗持城・南条館などの城館跡を初め、柏崎市街・日本海・米山などが眺望できます。
本丸跡は長さ160m、幅15mの細長い郭で、北側には「北條古城址」と刻まれた石碑が建っている。
本丸の南に深さ8m、幅12m、長さ40mの空堀が、その南に30m×40mの二の丸が、
その下に深さ6m、幅5m、長さ53mの空堀と畝形阻塞などがある。
畝形阻塞は深さ1m、幅1m、長さ7mの空堀4条で構成されている。
ここを下ると、北条氏の菩提寺専称寺に至る。これが大手道であった。
本丸跡東下に幅5mから15m、長さ110mと、幅5m、長さ75mの大規模な郭と空堀が構築されている。
この道は搦め手道で、山麓の普広寺へと通じている。本丸跡から北方へは、ゆるやかな尾根がのびているため、
特に大規模な空堀と郭を構築し防備を固めた。本丸北下に深さ14m、幅10m、長さ50mの、その北に深さ2m、
幅10m、長さ35mの、その北に深さ2m、幅7m、長さ40mの大空堀が尾根を切断している。