松本市が発掘調査を進めている虚空蔵山城跡の現地説明会に参加してきた。
鎌倉時代に東信から進出してきた海野氏の一族・会田氏が築いた城だ。
会田氏は戦国時代に武田に攻められて服属したが、武田氏滅亡後は上杉方につき、
その後、深志に復帰した小笠原貞慶の攻撃によって滅亡している。
虚空蔵山城は会田富士とも称される端正な容姿で会田盆地のシンボルともなってきた信仰の山を
全山要塞化して築かれている。
発掘現場は中ノ陣城跡に向かう途中にある水ノ手付近。
虚空蔵山から下りてくる尾根に挟まれた谷間に7段の平場がある。
全てが高さは約2m、長さ40mの石積みで固められている。
山城の石積みは通常は尾根上に築かれることが多いが、ここでは谷間に集中して使われているのが特徴的で、
さらにこの谷間を防御するように中ノ陣城と秋吉城が左右の尾根に築かれており、背後を峯ノ城で固めている。
この空間のもつ意味は大きな謎だという。
発掘調査によると石積みの基礎には県内では珍しい顎止め石の技法が用いられ、
平場は盛り土をして版築工法で突き固めているという。
ここまで丁寧な工事は山城では通常は行わないとのことで、謎の一つだとか。
発掘担当の方は、会田氏が「信仰の山」になぜ山城を築き得たのか、山麓の殿村遺跡や「信仰」との関わりから検討する必要があると考えているようだ。
腐葉土など堆積物を取り除いた表土からは小規模な建物か柵のような構築物があったと思われれ柱の跡が見つかっている。宗教施設の証左である礎石が発見できなかったのがちょっぴり残念であるかのような口ぶり。
さらに16世紀前半の中国産の青磁や白磁の破片、17世紀前半の陶器が出土、平場の年代は16世紀代と推定されるとのこと。
前回に訪れた折には「何処を防御しているのだろうか」と疑問に思った遺構だ。
その時には、上部の尾根上にある秋吉城の防御施設ではと漠然と考えていた。
しかし、発掘現場のすぐ近くにある竪堀を直登してみると、秋吉城跡は発掘現場のすぐ真上、指呼の間にあり、
発掘エリアが秋吉城の防御施設としてあるのではなく、むしろその逆であることにすぐ気がついた。
この谷間が会田氏または村人にとって特別な空間であろうことが想像できた。今後の調査を待ちたい。