桑原城は、戦国時代の山城であり、諏訪惣領家の本拠である上原城(茅野市)の支城の役割を担った重要な場所でした。
天文4年(1525)には惣領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が諏訪社の宝鈴を鳴らして和睦、
信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟関係を結んでいました。その関係が崩れたのは、
惣領を継いだ諏訪頼重が天文10年(1541)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことに対する報復か、翌11年(1542)、
父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ったことによります。
上社神長の記録「守矢頼真書留」によれば、そのころ諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、
民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと結んだ武田勢を迎え撃つ勢力には差が歴然としていたといいますが、
頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と戦おうとしていました。
7月2日夜、劣勢のまま居城である上原に火をかけて桑原城へ退却、3日の夕方には、
戦闘に備えるために検分をしようと「つるね」(足長神社へ続く尾根か)を下った頼重を見た家臣が、
頼重が城を捨てたと思い逃げていってしまったため、20人ほどで夜を明かし、4日、
甲州勢の使者を受け入れ城を明け渡すことにしました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。
このように桑原城は、諏訪惣領家最期の舞台となりました。