御館の乱後の論功行賞の混乱で自刃して果てた安田顕元の居城だ。
顕元は謙信没後の御館の乱ではいち早く景勝側につき、
当初は景虎側だった新発田重家などの国人衆を味方に引き入れ、景勝側の勝利に大いに貢献した。
ところが、乱の終結後の論功行賞において、景勝子飼いの上田衆が恩賞を独占すると、
新発田重家ら国人衆はこれに猛反発する。
顕元は重家と景勝との調停に乗り出したがうまくいかず、
重家と景勝との板ばさみにあい、責任を感じた顕元は景勝宛に諌書をしたためて自害した。
顕元の死により、重家は上杉からの離反の意志を固め、叛旗を翻すことになる。
(新発田重家の乱)
「城之組農村公園(安田城跡)入口」の標識に導かれて舗装された大手道を5分ほど登るとすぐに二の丸。 比高差30mほどで規模は小さいが二の丸から本丸への虎口に平山城の趣を残している。 「農村公園」という珍しい呼称の理由は本丸跡に建立された碑文を読んで納得した。 地元の方々の郷土に対する思いが伝わってくる。 本丸からは穏やかな日本海に浮かぶ大型帆船がのどかに遠望できた。
安田毛利氏は源頼朝に仕えた大江広元が祖といわれ広元の四男季光が相模愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市)を名字地としたことから毛利氏を称したと伝えられている。
季光の子経光はゆえあって佐橋庄南條に住みその孫時定が初代北条城主毛利丹後守である。北条二代城主憲広の次男憲朝は今から605年前(応安7年)この安田城主となり毛利安田氏を称した。
以来224年間にわたり上杉家の忠臣として活躍したが8代能元は主君上杉景勝に従って会津に移ったことによりこの安田城は廃城となったのである。
然し能元が慶長6年主君と共に更に米沢に封されたときでも録高は4333石で上杉筆頭でありその地位は幕末までたもちつづけたことが明らかになっている。
公園とよばれ安田地区の人々に親しまれてきたこの城址が近年荒れていくのを惜しみ地元城之組部落の計画的整備を引金として昭和53年大字安田協議会が
毛利氏のその後の調査のために米沢に派した代表により毛利安田氏の血脈がいまも続いているばかりでなくその菩提寺である慶福寺と共に
この安田城から能元に従って米沢に移り住んだ家臣の人達とも381年目に再会できたとの報告を得「ふるさと安田」の歴史の重みを後世に永く伝えるため
誇りをもってここに安田城址顕彰碑を建立するものである。
この碑の建設資金は
われわれのよびかけに答えた安田地区民の寄付金216万円によってまかなわれ
碑銘は上杉家16代当主上杉隆憲氏の揮毫によるものであり
碑文に史料調査委員会が各界の指導をうけながらまとめたものである。.........昭和54年11月23日