火打山への再チャレンジを雨天のために諦めて、草津温泉経由で帰途の道すがら、
吾妻地方に勢威を張った羽尾幸全の羽根尾城跡があるのを思い出した。
武田と諏訪そして村上の連合軍に敗れて信州を追われた真田幸隆が一時身を寄せていた城だ。
その後信玄に仕えた幸隆は妻の父でもある幸全と戦って越後に追いやってしまう。
さらに幸隆の息子・昌幸は幸全の二人の弟をいったんは岩櫃城代と沼田城代の要職につけながら
讒言を信じて攻め殺してしまう。戦国哀史の城だ。
海野長門守の墓所と三原三四番札所となっているお堂の削平地が大手口を扼しているようにも見え、
大手道を登って行くと左右の尾根上から矢弾が襲いかかってくるような錯覚を覚える。
城の所在を尋ねた地元の人は「石碑があるだけだよ」と教えてくれたが、
虎口の堀切や本丸の土塁などの遺構を確認できた。
本丸の土塁に生えていた美味で知られるアカヤマドリタケが印象的だった。
海音寺潮五郎の短編小説に羽尾兄弟の輝幸を主人公にした「執念谷の物語」があり、 今年の6月に新人物文庫から発刊されている。
羽根尾城跡は、大字羽根尾城峯山の山頂にその遺構を残している。
雑木林に囲まれ北端に本丸の土居がみえ、その南に二の丸、更に一段低く三の丸が続いている。
山麓西側には地獄窪、また北方堀切を距てて北方水という用水池がある。築城年月日は詳らかでない。
この城は羽尾氏の本拠であって、羽尾幸全入道とその弟海野幸光(長門守)輝幸(能登守)の兄弟がここから出ている。
戦国時代の羽尾氏は、この城にあって勢力を振い、草津の湯本、嬬恋の西窪・鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍していた。
永徳6年(1563)長野原合戦では、海野兄弟は岩櫃城斎藤越前守方の大将として、長野原城を攻略した。
その後、真田方についた羽尾氏は、永禄9年(1566)真田幸隆より岩櫃城攻略の戦功により岩櫃城代に任ぜられた。
幸隆の没後、子昌幸も海野兄弟を信頼して吾妻郡を一任したが、海野兄弟に対する誤解と地侍の手前から天正9年(1581)海野兄弟を急襲した。
長門守は、岩櫃城にて自害し、能登守は迦葉山に退いたが、追手の多勢に敗れ自刃した。
海野兄弟を失った羽根尾城は、天正11年(1583)昌幸の命により湯本三郎右衛門が在城するようになったが、いつ頃廃城になったか詳らかではない。