安曇野風来亭 道楽日誌 操業日誌 戦国山城散歩 キノコ図鑑 小平漁協書籍部 自己紹介

風来亭 フォト日誌

水戸城・弘道館

古城散歩 水戸城三の丸空堀 古城散歩 水戸城大手橋

古城散歩 水戸城弘道館 古城散歩 水戸城弘道館

2009年4月20日


水戸城跡<塁および濠>(現地説明看板)

水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地 (現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中 (現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、 石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。
15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、 代わって居城した。
それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学付属小、水戸三高)を築くなど、 城郭を拡張して約160余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、 天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。 こうして54万石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。 ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、 僅か13年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、 慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第3代綱條の時から35万石)となってから代々その子孫が継いだ。 頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、 徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

水戸市教育委員会

NEXT >>