小諸城の起こりは、平安末期から鎌倉時代にかけて源平盛衰記や平家物語に登場する
木曽義仲の武将として名をとどろかせた小室太郎光兼が現城址の東側に館を築いてきました。
その後大井光忠が、小室氏をおさえて鍋蓋城を築城、
さらに乙女坂城(白鶴城)とも云う現在の二の丸跡を構えたが、武田信玄の攻略により落城、
信玄はこの地が重要であることから山本勘介と馬場信房に命じて築城したのが現在の小諸城跡で酔月城と名付けました。
その後、織田信長の将・滝川一益、徳川家康の将・松平康国が城主になった。
さらにその後豊臣領となって仙石秀久が城主になり、二の丸、黒門(一の門)、大手門(四の門)、
足柄●を建てて現在の小諸城が完成したのであります。
この城の堀は、浅間山の火山灰層で水をもちいずに崩れやすい断層が堅固な防塞になっております。
また(穴城)城下町より低いところに城があるので、そのように呼ばれ、
全国でも一、二を数えるめずらしい城跡といわれています。
明治二年の廃藩置県で役割を終え、明治13年に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになりました。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・・」と島崎藤村に詠われた懐古園は、
11の丘と12の谷からなる国際観光公園であります。園内には懲古館、藤村記念館、郷土博物館、
小山敬三美術館、動物園等の諸施設があります。
関ヶ原合戦後に一旦破却されて仙石氏によって再建されているので、現状の遺構がそのまま真田時代のものではないだろうが、、
本丸堀や百阮x、尼ヶ渕の断崖など、堅城の名残を良く留めている。
城址公園は「上田の千本桜」として売出し中で、桜の季節に再び訪れてみたいものだ。