NPOの会議で安曇野を訪れた。
小岩嶽城址の近くに宿をとって朝一番に訪れた。
週末にNPOの安曇野支部で実施する「安曇野ふるさとウオッチング」
のコースになっているからだが、
信州にいる間に訪れておきたかった城址だ。
公園として整備されているとはいうものの、目についたのは黒塗りの砦門と物見櫓のみ。
南郭の隣接エリアで工事が行われているが、復元工事なのか公園建設工事なのか不明。
南郭を取り囲むような堀切が土砂と藪で埋もれかかっている。
こちらの修復を優先する方が城址公園としては望ましいと思うのは私だけか。
高台にある物見櫓はイメージをミスリードする怖れもある。
気を取り直して大手口に戻り砦門脇から城内に入る。
看板の縄張り図によれば左右に曲輪が展開しているが、明瞭なのは左側の南郭。
植林のための段丘と紛らわしいが縄張り図では郭跡となっていて、上田の塩田城址のそれに酷似。
要害堅固というイメージは全くなく、どちらかというとのどかささえ漂う中世の平山城址。
ここで武田勢による殺戮が行われたとはとても思えない。
背後の山が詰城になっているのだが時間が無いので入山は断念した。
本郭の片隅には戦没供養碑がひっそりと建てられており、毎年供養が行われているのか
何本もの卒塔婆が立てかけられていた。
小岩嶽城に立て篭もった城兵の悲惨な末路は未だに忘れ去られていないのだ。合掌。
当城は、中世の古厩郷の領主古厩氏の宿城と考えられ、城域は、今の小岩岳集落も含めた広範囲とされ、
現在も集落内には空掘の一部と地割が見られます。また本郭は約1平方キロメートル、
その平は南北135メートル、東西40メートル、北に天満沢、南に富士尾沢と空掘を控えた自然の要害です。
全面に三段の郭、山頂に至る間にいくつかの帯郭、掘切を設け、水源もあり矢竹も自生し、
峯の物見は安曇野を一望に収める有名な山城です。
高白斎記によると、天文20(1551)年10月27日武田晴信の軍勢に攻められ、放火されました。
翌天文21年8月12日の激戦で城主は自害し、8月14日落城しました。この時の戦いの様子は、
勝山記(妙法寺記異事ナシ)に「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ。」
と悲運な最後が記されています。