天文14年、武田晴信が福与城の藤沢頼親を攻略すべく伊那谷の入り口・荒神山に陣を張った時、頼親の義兄・小笠原長時が援軍として駆け付けて入ったとされる竜ケ崎城。
穴倉山から南に下りる細長い尾根の先端部に築かれた典型的な連郭式の山城だ。主郭の虎口の形状が安曇野の光城のそれに酷似していて驚く。
主郭には土塁を巡らし背後は深い大堀切で尾根筋から断ち切っている。
攻めるに難く守るに易しのイメージそのものだが、救援軍の出撃拠点としては如何かと疑問が湧く。
しかし位置的には荒神山に布陣する武田勢を背後から牽制することになり、武田軍にとって脅威ではあったろう。
この城が武田方の板垣信方によって攻め落され小笠原長時が逃げ帰ってしまうと、
藤沢頼親はやむを得ず和議を結んだが、これは事実上の敗北で城は焼かれてしまい、以後信玄の伊那谷支配が始まり小笠原の衰退に繋がっていくことになる。
小笠原長時が塩尻峠で決定的な敗北を喫するのは3年後の天文17年のことだ。