吾妻川の源流域への釣行の帰り道に必ず目にしていた岩櫃山。
奇岩怪石の絶壁連なるその山中に真田氏隆盛の拠点となった山城があると聞き、
いつかは訪れてみたいものと思っていた。
今日ようやくその思いがかなえられ、寒桜が咲く登山口に立つことができた。
久しぶりの山歩きは思いのほか足の筋肉に応えたものの本郭まではおよそ20分ほどで難なく到達できた。
吾妻街道側からの眺めと真田氏のイメージから、山賊の根城を
ちょいと大きくしたぐらいなものだろうと、訪れるまでは何故か思い込んでいた。
しかし、さすが関東三名城の一つに数えられるだけあって、
一部の城域を歩き回っただけだが、その堅城ぶりに驚き、
他の何処でも見たことのない築城哲学に触れた思いがした。
2007年12月1日
<現地説明看板より> 岩櫃城由来記 吾妻町観光協会
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、
鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。
城郭の規模は1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、
駿河の久能城と並び武田領内の3名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、
永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。
ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。
こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、
翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。
天正18年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は、沼田城の支城として、
重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令
(慶長20年(1615))により、4百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。