松本近辺の山城は防獣柵で囲んであることが多いようで、この山家城跡も例外ではない。
それほど野生動物が多いということだが、向こうがいち早く察知して遁走を図るためか獣たちに出会ったことがない。
それにしても後に残されたシカの置き土産、すなわち糞のなんと夥しいことか。
地元の方たちが整備した山道はもちろんのこと、郭という郭のそこかしこに溜め糞があって閉口する。
しかしそのことがこの城の価値を貶めることはない。
この城の圧巻は、なんといっても本郭周りの石積みと背後の大堀切の見事さであろう。
そして大堀切に連続堀切が続いて、さらにその奥に隠し本城とでもいうべき秋葉神社の郭が築かれていることだ。
全く異なる二つの城が同じ尾根上に存在しているという印象を受ける。
石積みの本郭は小笠原氏時代に、奥の隠し郭は武田氏時代に構築されたと考えられている。
平野部から離れた谷間の耕地とて少ないこの地にこれだけの規模が築かれたのは驚きだが、
小笠原氏も武田氏も小県方面と松本とを結ぶ交通路の押さえとして重視したものだろう。
所 在 地 松本市大字入山辺8318番地ほか
所 有 者 松本市ほか
指定年月日 昭和55年9月8日
指定内容
鎌倉時代末に地頭の山家氏が築城したと伝えられる。
山家氏、元弘元年(1331)に徳雲寺を創建した神為頼(諏訪氏)の子孫が山家氏を称した。
文明12年に小笠原氏にそむいたため、小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたがこの戦いの後山家氏は滅びている。その後、永正2年頃小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治(折野山家氏)が播州から来てこの城にいたといわれている。天文19年武田信玄の府中侵攻のさいに自落した。
この城は、遺構が大変見事に残っており秋葉神社のあるところが古く、主郭は東西約20m、南北約22mで周囲の土塁を取り巻く石垣は戦国時代末期の松本平の石垣技術の到達点を示している。この部分は天正10年以降に大きく改修されたと推察される。
長野県を代表する山城として県史跡に指定されている。
平成18年3月 長野県教育委員会 松本市教育委員会