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松本市・埴原城跡

   「高白斎記」によれば、天文19年(1550)に武田信玄が「イヌイの城」を攻め落としたため、 小笠原氏の林大城はじめ深志・岡田・桐原・山家の5城が自落したとされる。この「イヌイの城」が埴原城だと考えられてきた。 林本城の南方を固める埴原城は小笠原氏系のでは最大規模の山城であり、ここが落とされればさもあらんということだったのか。 「イヌイの城」は実は「イヌカイの城」であって、単純に「カ」が抜けているだけだという説明も拍子抜けではあるが、妙に説得力がある。
   それではいつ攻め落とされたのかが疑問になるところだが、 天文17年(1548)に塩尻峠の合戦の余勢を駆って武田勢は埴原城を背にする中山の和泉に進出して陣を張っていることから、 この時期ではないかと考えられる。当時の城の規模は現在の遺構よりもずっと小規模だったと推測され、 現在の規模にまで拡大修築したのは府中に復帰した小笠原貞慶の時代だと考えられる。
   この城の圧巻は本郭の構造だ。石積みで固められた本郭まで攻め上がって小笠原系定番の本郭背後の大土塁を見てここで打ち止めとほっと一息。 しかし土塁の上に登って仰天。本郭の背後にさらに広い郭が広がっており、 そして大土塁と大堀切で固められている。いわば隠し本郭の構造なのだ。これには驚嘆した。
   整備が行きとどいており、規模も大きく、二度三度と攻めてみたい山城だ。

埴原城跡の石積

埴原城本郭の石積

埴原城大手虎口 堀切
大手虎口                      堀切

埴原城本郭の土塁 埴原城本郭の礎石
本郭背後の土塁           本郭の礎石

埴原城本郭背後の切岸 埴原城第二本郭
本郭背後の切岸               隠し本郭

2014年4月8日

長野県史跡小笠原氏城跡   埴原城跡     (現地説明板)
所 在 地    松本市大字中山
所 有 者    個人
指定年月日 昭和45年10月22日

指定内容
   埴原城は、城に関する資料が残っていないため、詳細は定かでないが、もともとは、埴原牧を背景として勢力のあった埴原氏が築城したと言われている。
   しかし、現在の埴原城の遺構は、厳重な防御施設の跡など、他の小笠原氏城跡との共通性がみられるため、武田氏滅亡後に木曽氏や上杉氏との軍事的緊張下にあった小笠原貞慶が改修したものである可能性が高い。
   この案内板のある場所から1キロほど東へ上ったあたりが埴原城の主郭で、東部分と西部分とで大きく二つに分けられている。 全体の規模は、東西50m×南北13mであり、周辺には石積を巡らし、背後には高い土塁を築いている。 標高は約1000m地点にあり、ふもととの標高差は約200mにも及ぶ。
   また、ふもとの御屋敷、梅屋敷と呼ばれる平地から主郭までの道すじは急峻で、途中には堀切、段郭、溝等の防御施設が設置され、攻められた際、簡単には主郭にたどりつけない構造になっている。 さらに、主郭背後の尾根にも堀切が連続して設けられ、後方からの攻撃にも備えている。 主郭を取り巻く石積は、平らな石を積み上げただけの構造であり、これは他の小笠原氏城跡で見られるものと同様である。その技法から、畿内から石積技法が伝わる前のものと考えられる。
   県史跡に指定されている小笠原氏城址のなかでも、埴原城は、全体として遺構の規模も大きく、状態もよく残っているため、注目すべき山城である。
平成24年3月     松本市教育委員会

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