旧国鉄篠ノ井線は明治35年に全通、信越本線の篠ノ井と中央本線の塩尻を結ぶ67.4キロ。
長野県の南北を縦断して多くの人や物資を運搬してきた。
昭和45年には蒸気機関車が姿を消して電化され、
昭和63年に新線が完成したことで86年間の役目を終えた。
廃線敷のウオーキングコースは第2白坂トンネルから潮神明宮までの全長約5キロ。
新線開通にともなって廃線となった区間のうち、約6キロを、
地元の有志の方々によって遊歩道として整備された。
明科と西条の間に駅は無く、地元の人が篠ノ井線を利用するにはどちらかの駅まで歩くしかなかったが、
線路は地元の人にとっては別の形で役立った。
潮沢街道(現・国道403号)は粘土質の為に雨が降ると泥濘となって歩きにくかった。
そのため潮沢沿いの住民は線路を道路代わりに使っていた。
また、当時の列車はパワーが弱く
急こう配では極端にスピードが遅くなり、通学生徒は機関車の後ろに無賃乗したとか。
昭和30年代に輸送力をアップするために列車のすれ違い場所としてスイッチバック式で作られ、急行列車を優先して通しました。
潮沢地区の老人会の旅行の為に2日間だけこの場所に駅が出現したことがありました。脚立で乗り降りしたとか。
また、この場所は土砂崩れが多発したので、斜面の石積みをさらにコンクリートで補強している。
明科〜西条の間は有数の地滑り地帯で、何度も災害が起き、列車を直撃する事故もあった。
そこで昭和20年代、6万平米の森に、ケヤキを3万本植樹 全国的に珍しいケヤキの森を造成した。
ケヤキはしっかりと地に根を張り、家具・建材にも使用できる有用な樹木。
赤・黄・緑ケヤキがあり、これは製材してはじめてわかるという。赤ケヤキが最も高価とか。
当時の信号機は色ガラスをはめ込んだ円盤を回転させて列車に合図を送っていた。
この廃線敷で唯一ヶ所残されている踏切の遮断機とレール
戦国時代、この地域は、潮沢川を挟んで南側は海野氏系の会田氏、
北側は大町の仁科系の日岐・丸山氏、東側は筑北の青柳氏が支配しており、
多数の城砦を築いて互いにけん制し合っていた。
左右の峰々に佐々野城・三峰城・花見城・猿ヶ城など多くの山城や砦・監視所跡が残っている。
しかし、ほとんど戦闘らしい戦闘はなく、いたって平和な国境地帯だったようだ。
安曇野では潮沢といえば山の中という代名詞だったが、暮らしは豊かだったという。
山間地の急傾斜・粘土質の土地を利用した養蚕・たばこ、綿羊の飼育が盛んだった。
なかでもたばこ生産は日本の20%を占めた時期もあった。
たばこは江戸時代に隣の生坂村の照明寺の住職が長崎から種を持ち帰ったのがはじまりとされる。
明治時代には隣の西条の炭鉱で働いて現金収入を得ていた。
トンネル上の古道は善光寺への近道だった。
道中の安全を願って建立された石造。前は御嶽山の裏参道を開いた覚明、後ろは表参道を開いた普寛の石像。
普寛は測量の邪魔になるとして鼻が削がれている。
古道は尾根伝いに名九鬼の上に出て、接吻道祖神のある池桜の峠を越えて筑北方面に続く。
西条駅―明科駅間は山や谷が多く、山肌や岩を削り深い谷を埋める難工事の末、線路が敷かれた。
この漆久保トンネルは、西条駅と明科駅の間に開削された大小5個のトンネルの一つで、
明科で焼かれたレンガが使われている。
100年前のトンネル建築の典型で、建造以来補修がなされておらず明治時代の面影が今でも色濃く残っている。
線路の下を小川沢を通すために築かれた総レンガ造のアーチ橋。
アーチ上部のレンガの積み方は全国でも珍しいイギリス積みとか。
線路脇の細い山道の奥にかっては集落があった。さらに上れば戦国期の山城跡にたどり着くだろう。
山道の入口に頑丈な建屋に覆われて双体道祖神と道祖神文字碑、庚申塔が大事に祀られている。
廃線敷をウオーキングコースとして整備・復活させた立役者の宝さんが運営する休憩所は、
正面に常念岳を望む絶好の休憩ポイント。
無料で湯茶の接待が受けられ、旧篠ノ井線を走る蒸気機関車やスイッチバックの様子をDVDで楽しめる。
タイミングが良ければ新線のトンネルを抜け出てくる列車を見ることができる。
潮沢には夫の八面大王と夫婦喧嘩をした紅葉鬼人が住みついて悪事を働いていたので、
坂上田村麻呂が八面大王を先に征伐してから攻め寄せて退治したとの伝説がと伝わる。
坂上田村麻呂がもみじ鬼神を討伐すべく、このトンネルの山の上に15日間滞陣したことから三五山と名付けられたという。
潮沢にはもみじ鬼神伝説に因むとされる地名が多い。
鬼が泣いたところとされる名九鬼、頭と尾を埋めた柏尾、矢を作った矢元、放った矢が通り越した矢越、
矢が通った下のところは矢下など。
しかし、実際には「矢」は「砦」の意味とされ、戦国時代の砦に関係する地名だと考えられており、
潮沢の山々に集落が点在するのは戦国時代の名残りだという。
明治30年代に総レンガで造られたが、篠ノ井線の電化に備えて電線に水滴が付着するのを防ぐために、 天井部分にモルタルを吹き付ける補修工事を施している。
三五山トンネルから出た瞬間に目の前に広がる安曇野と北アルプスの景観は、篠ノ井線の三大景勝といわれる。
他に姨捨駅と田沢の泣き坂がビューポイントとされる。
平安〜鎌倉時代に、川手地域が伊勢神宮の荘園になった頃に創建されたされる。
室町時代に仁科氏が寄進した木造の狛犬一対、そして戦国末期に日岐盛直が小笠原氏に奪われた旧領(潮沢北側一帯)を回復できたら
神田を寄進するとの古文書が市の文化財となっている。