犀川に架けられた国道19号線の木戸橋の袂に半島状の丘陵があって、その位置といい形状といい、
城跡ではなかろうかとかねてから気になっていた。
切岸の中腹にある段差が帯郭のようにも見えるのだ。
そこで登ってみると帯郭と見えたのは用水路だった。安曇野でいうところの堰(せぎ)だ。
アテが外れて少々がっかりしたが、諦めきれずに周囲を探索してみた。
半島の先端部分に入るには民家の庭先を通らねばならないので断念したが、
ここが河岸段丘上に築かれた城であるとの印象は強くなった。
そこで図書館で明科町史を確認してみると、塩川原氏の狐城(きつねん城)だと判明。流れていたのは五ヶ用水だった。
明科町史によれば、旧明科町には戦国時代の山城跡や館跡が非常に多く、
関係する地名は200近くもあり、遺構も数多く残されているという。
これは明科の複雑な地形もあって会田氏や塔原氏、日岐氏、
青柳氏や大足氏が入り組んで勢力を競い合っていたからという。
地形から城跡の存在を推理して探し当てたり、自分が築城するならこの場所と想像するのは至上の楽しみだ。
*五ヶ用水
安曇野の発展は堰(せぎ)の開削抜きには語ることはできない。
五ヶ用水は押野・塩川原・荻原・中村・小泉の5ヶ村を潤す延長12キロ余の犀川左岸段丘上を走る堰。
小泉村の庄屋牛越茂左衛門の壮絶な苦難の末に天保3年(1832)に完成。