安曇野に吉野町館跡という史跡がある。
武田氏滅亡によって復帰した小笠原貞慶は旧領を回復すべく武田旧臣を次々と謀殺するなどして
攻め滅ぼした。それは怨念としか思えない凄まじさだったが、この城の城主・日岐盛武については例外だった。
盛武は日岐大城主である兄の盛直とともに抵抗したが敗れ、一時は上杉方を頼って逃れた。
その後紆余曲折あって小笠原氏に帰順、小田原攻めに従軍するなど忠勤に励み、
兄の旧領に加えて本領の吉野などを安堵されている。
吉野町館はその盛武の居館として築かれたもので、盛武は安曇野に深い関わりがあった武将と言える。
城跡は犀川が大きく屈曲した半島状の先端部分の山上にあって、城主が居住していた殿屋敷跡から入る。
屋敷跡の上段の正福寺跡には日岐氏の墓地があり、付近には仁科氏の家紋の揚羽蝶が刻まれている墓石もある。
日岐氏は仁科氏の一族であったことを再認識。墓地の上段の馬場跡と見られる広い平地から山道を登り始める。
竪堀のようにも見える谷を右手に見ながら20分程登ると尾根の鞍部。左側に行けば尾根先端部にある見張台、
右側に進むと三の郭を経て本郭に続く城の核心部分だ。
谷のように見えたのはやはり竪堀で鞍部から堀底道となって麓まで続いているようだ。
城の主要部分は細い尾根筋に梯郭式に狭い郭を連ねている。
左手は断崖絶壁となって犀川に落ち込んでいて、この方面からの攻撃はほとんど不可能だろう。
対岸には日岐大城のある京ヶ倉へと続く尾根が見える。
右手も急斜面となって屈曲した犀川に続いていて、こちら方面からの攻撃も困難を極めるだろう。
だが如何せん城の規模が小さい。大軍に攻囲されたら逃げ場はなく袋のネズミということに。
三の郭はほぼ自然地形で刀鍛冶がいたことからかじ平ともいうそうだ。
三の郭から見あげる二の郭はけっこう威圧感があって、今にも石や矢が降り注ぎそうな気配すら感じる。
二の郭には虎口の枡形と土塁とが明瞭に見てとれ、
防御施設としてこの城では最も手を加えた部分と思われる。
規模は小さいものの山城の遺構が良く残されていて嬉しい。
いちだんと深い大堀切を登り返すと本郭。
本郭跡には往古からあっただろう巨岩と古い供養塔がひっそりとある。
木々が生い茂って展望は得られないが、枝葉の隙間から白雪に輝く北アルプスや犀川の流れが見える。
最後の城主・盛武は小笠原氏の移封に従って関東の古河に去ったが、どんな思いでこの風景を眺めたのだろう。
1、日岐(丸山)氏は仁科氏の一族で明応元年(1942)頃生坂谷へ進出し、
裏日岐へ居館を構え盛慶・盛高・盛次・盛武などが約100年住む。
1、日岐城はその時築城され、天正10年(1582)小笠原氏に降参、同18年小笠原氏に従って関東に移るまで居城した。
1、標高620m、本郭の広さ20mに28m、東側に石垣、平地に供養塔と城の守護神八幡神社跡がある。
1、北側に大堀割・二郭・三郭と見張りの地に浅間社跡がある。
1、南側に小堀割2条と大堀割1条があり敵をふせいでいる。
1、とはり橋は西方の関所で白駒城は出城である。