信州ふるさとづくり応援団安曇野支部の「第14回ふるさとウオッチング」は、当日の飛込みを加えて参加者約100名で実施されました。
今回は旧三郷村の一日市場地区。古くから何本もの用水堰が開削されて拓かれた地域で、
千国道と飛騨道が交錯する要衝で市が開かれて賑わっていました。
戦国時代にこの地域を支配していたのは二木氏。同族の小笠原氏に最後まで忠節を尽くした一族です。
二木氏は武田氏に本拠の林城を追われた小笠原長時とともに中塔城に立て籠もって徹底抗戦、
長時が上杉謙信を頼って越後に去ると、いったんは武田氏に帰順していますが、
武田氏の滅亡後、長時の三男貞慶の復帰に際して大活躍、重臣として取り立てられ、
小笠原氏による松本城下への武士集住策に従って移住、
草間氏や犬甘氏とともに家老として重きをなします。
その後、二木豊後守は小笠原氏の転封に従って上総の古河へ去っています。
戦国惚けの眼からウオッチングコースのハイライトを紹介します。
草間肥前守
社宮司は安曇野では用水堰の分岐点などに水神様として祀られている。
安曇野の発展は用水堰の開削を抜きにして語ることはできず、この地区でも例外ではない。
開削や管理には有力な支配者の存在が不可欠だった。
草間氏は開拓の要となる分水点を押さえることでこの地域を支配していたと思われる。
戦国時代は二木とともに行動しており、
武田勢と戦って戦死した草間氏の跡を二木豊後守重高の甥が継いで草間肥前守と名乗っている。
江戸時代に新田開発の神として勧請された神明社。
この付近は「いそすの目」(石臼の目の転化)と呼ばれ、用水堰を計画的に分岐開削した要衝の地だった。
この北側に草間真空屋敷跡があり、移転前の社宮司があった。
草間氏が祭祀を取り仕切っていたのであろうか。
二木豊後守
幾筋もの用水堰とともに千国道や飛騨道・牛かい道が交差・集中する地点にあったのが長徳寺。
現在は三郷神社などの敷地になっている。
その北側にあったのが遺構は残っていないが二木豊後守の屋敷だ。
豊後守は長徳寺の中興の祖と言われる。
武田氏滅亡後、小笠原貞慶の復帰に際しては、
上杉方との麻績城攻略戦で危地に陥った貞慶を、松本の領民に紙の幟旗を持たせ大軍と見せかけて救援するなど大活躍している。
かっては長徳寺の一堂宇だった観音堂の鬼瓦の紋は三階菱。
三階菱は小笠原氏の家紋だが二木氏もこれを使用しており、
長徳寺が二木氏ゆかりの寺だったことがわかる。
真々部から一日市場に移転してきた真光寺の寺紋は揚羽蝶で、
これは真々部氏が仁科氏系だったことによる。
トラウマによる廃仏毀釈
観音洞の敷地内には50体ほどの石仏が並んでいるが、数体が首を切断された跡を残している。
これは明治維新期の神仏分離令に起因する廃仏毀釈の名残。
旧松本藩内でとりわけ激しかったのは、最後の藩主戸田光則が戊辰戦争の際に
新政府側への態度決定が遅れたことを咎められたトラウマによるものとされている。
殿様のいわば点数稼ぎの犠牲だ。