NPOの会議場所を確保するに当たって
電話だけでは不可というつれない返事なので上田市の丸子まで会議室の申し込みに出向いた。
申込みをするためだけに安曇野から2時間余りもかけて丸子まで往復するのももったいないので、
ついでの駄賃ということで山城の一つでも攻めようと目論んではいた。
会場の目の前を流れる川の対岸にある山を眺めると、
いかにも山城だという雰囲気を漂わせているので、
職員に尋ねると丸子城跡だというので手続きもそこそこに攻城開始。
丸子城は第一次上田合戦の折の「丸子表の戦い」で知られる真田の属城だ。
依田川河畔の公園駐車場から快適な遊歩道を登る。
徳川勢は神川の戦いで撃退された後、丸子城に攻め寄せたので
真田昌幸は救援のために上田城から出撃している。
昌幸は秀吉からは「表裏比興の者」、家康からは「稀代の横着者」と評された智将。
関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦でも徳川の大軍を寡兵をもって退けている。
丸子城二の郭跡(現地説明看板)
ここは、丸子城の二の郭(本城を守るために武士がたてこもった場所)跡で、本郭跡はこの南側の山頂にある。
丸子城(依田城とよばれた時代があった)は戦国時代の山城で、天正13年(1585年)、
時の城主丸子三左衛門(三右衛門ともいう)が真田昌幸の軍に属して徳川家康の軍と戦った、いわゆる「丸子表の戦いの場」である。
この西側のすぐ下の辰の口地籍には、辰の口居館(ふだん武士が住んでいた場所)跡がある。
二の郭跡には模擬櫓が建てられているが破損のために立ち入り禁止。
山城跡の櫓には造りっ放しのこんな所が多い。最初から作らねばよさそうなものだ。
二の郭は別名飯盛城とも言うそうだが、独立した城というより物見台。浅間山方面の展望が良い。
二の郭からしばらく岩尾根を下り、二条の堀切を過ぎて登り返すと矢竹の笹藪に囲まれた本郭。
丸子城本郭跡(現地説明看板)
ここは、丸子城の本郭(戦いのときに武士がたてこもった中心的場所)跡である。
丸子城(依田城とよばれた時代があった)は戦国時代の山城で、天正一三年(1585年)、時の城主丸子三左衛門(三右衛門ともいう)が真田昌幸の軍に属して徳川家康の軍と戦った、いわゆる「丸子表の戦いの場」である。
この北側の尾根には二の郭跡がある。
本郭の広さは20m×40mほどで上下2段に画され、上段には「丸子三左衛門城址」と読める石碑がある。
徳川勢から少数の兵によって城を守り通した丸子三左衛門を顕彰しているのだろう。
本郭の南東側は依田川に落ち込む断崖となり眺望が得られ、西側には段郭があり、さらに下にも数段続いているように思われる。
2011年10月6日
天正13年(1585年)8月2日、真田昌幸は沼田城(群馬県)の明渡しを拒み、徳川家康の大軍と神川の辺りで合戦しこれを撃退しました。
その後、徳川軍は丸子城に矛先を変え、八重原に布陣しました。昌幸は手白塚(塩川)に出てこれを牽制しました。
8月19日、諏訪頼忠が丸子城の攻撃を開始し、合戦が始まりました。丸子城では真田の家臣、丸子三左衛門(三右衛門)らが少ない兵力で、城を守っていました。
翌日、昌幸は長瀬河原へ出て鉄砲で諏訪軍の背後をつきました。これを見た岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に火を放って真田軍を退け、辰の口側から丸子城に攻めかかりました。
戦いが終わったあと、家康は17状もの感状(感謝状)を部下に与えていますが、この数からみても丸子合戦がいかに激戦であったかがうかがわれます。
このように丸子城は実際に戦闘が行われた山城です。山中には当時の段郭や土塁、堀切や竪堀などが残り、戦国時代に築かれた城郭の特徴や、歴史のドラマを探る貴重な遺跡となっています。
平成4年3月 丸子町 丸子町教育委員会