吾妻川沿いを上流に向かって車を走らせていると前方に台形の独立峰が見えてくる。
山城を構えるには格好の山容だが、何やら神々しくもある。
右端の突起部分が崇山の山頂にあたる大天狗だ。
武田信玄の上州侵攻の際に吾妻地方の武士の最後の抵抗拠点となった崇山城。
落城と共に大勢の人が大天狗の岩から身を投げたという。
本郭の跡には戦死者を弔っているのだろうか71体の石仏が並んでいた。
(指定)昭和63年3月26日... (所在地)群馬県吾妻郡中之条町大字五反田
崇山は、中之条盆地を見渡す台地上の標高789メートルの岩山で、
嶽山・岳山・武山とも書き、和利嶽・見付山・お天狗山などと呼ばれている。
古くから祖霊を祀る霊山として信仰されており、
南北朝時代に社寺縁起などを集めて編さんされた「神道集」の中に、
「式部山(子持山)の神である子持大明神(子持御前)と
結婚した見付山(崇山)の和理大明神(加若和理)」として記され、
和理の神が山上の奥社・麓の親都神社・里宮の吾妻神社(和利宮)に祀られている。
永禄6年(1563)10月武田信玄の吾妻郡侵攻によって岩下衆の本拠岩下城が攻略されると、
岩下衆は上杉謙信の支援のもと、斉藤越前守の子、
城(白)虎丸を擁して崇山城に籠城し四万川を境に武田方の岩櫃城と対陣した。
崇山方は四万川東岸の内山城(中之条町折田)・城峯(同西中之条)と、八幡(同横尾)に砦を置いている。
武田信玄は、永禄八年2月上州出撃のとき、箕輪城(箕郷町)と共に崇山城の攻撃を目標にあげている。
同年12月、真田幸隆は城方の池田佐渡守父子を、味方につけて城を退出させた上で、総攻撃を加えた。
城主城虎丸は城の北方の天狗峯(大天狗)から飛び降りて自害し、後を追って多くの人が亡くなったと伝えている。
崇山城はこの戦のあと廃城となり、以後は信仰の山に戻って今日に至る。