昨年新卒で私のセクションに配属された女の子が、3月1日付けで大阪に配転になった。
もともとは大阪出身なのだから、いづれはこういう時がくるとは思っていた。
しかし、入社1年にも満たず、こんな半端な時期に辞令があるなどとは、本人も私たちも予想だにしなかった。
「リストラ」の一環だという噂も。会社のご都合主義はいまに始まったことではないが、それにしても、唐突極まりない人事だった。
28日、花束を抱いた彼女を新幹線ひかりに押し込むように見送った後、「ああ、明日は解禁だ」と、何故かポツンと浮かんだ。
1日の職場は白々しくそして静かだった。まるで最初から彼女など存在しなかったかのように。いくつかの会議や打ち合せをこなした後、休暇届けを出した。
秋川は流れを覗き込みながら何度か車で通ったことはあるが竿を出すのは初めてだ。解禁2日目とあってか、釣り人の数は多く、
車を止める余地もない。ようやく路肩に隙間を確保して流れに降りる。水温は3.5度、透明度の高い流れを遡行する。
今年初めての渓流、半年振りの渓流だと、心のなかで呟いてみても、ほとんど感激も湧かず、竿を握った緊張感すらない。
慣れない東京弁に舌をもつれさせ、電話のベルに恐れおののき、ちょっとしたタレントとの打ち合せにも緊張しまくっていた彼女。
それでも我々に十分な期待と喜びを与えてくれる娘だった。ようやく東京の生活にも仕事にも慣れ始めた矢先だった。
本人も周囲も、そして私も納得できなかった。しかし内示から1カ月、会社との何度かのやりとりの中で浪速っ娘の意地を見せ、
そして自分自身をなんとか納得させて配転に応じたのだった。
上流から降ってくる釣り人とつぎつぎに擦れ違う。
平日とはいえ都下の渓流だ、他人に出会わないほうが不思議だろう。今日はなぜか年季の入ったお年寄りの釣り人が多い。
一言ふたこと言葉を交わす。いづれもいまだ型を見ていないようだ。ますます釣りに確信が持てなくなり、ただ漫然と流れを釣り上っていった。
そして通らずの手前にある広いプールで停滞する先行者に追いついてしまった。「これまでか!?」と、なにげなく向こう岸の落ち込みに投入。
竿先を震わせて手元に飛び込んできたのは、15センチ足らずの綺麗な山女魚。手の平の中で観念したように息を弾ませている小さな山女魚。
冷たく透き通った流れに山女魚を帰しながら、花束を抱いた彼女の涙顔を思い浮かべ、
もうこの渓には来ないだろうなと、ふと思った。