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若槻城址(長野市若槻)

若槻城址

周囲の里山は褐色に染まり、2000メーター級の山はうっすらと雪化粧して、信州はすっかり晩秋の気配。 雪山に登るほど体力と気力の無い私には多少辛いシーズンに突入することになる。 東京にいた頃のこの時季のテーマは「富士山が見える山」だった。 そこで信州暮らしでは「戦国時代の山城」をテーマにして里山歩きをすることにした。
そう考えて長野市の周囲の里山を見渡すと謙信と信玄の「甲越合戦」に関わった山城が随所にあって、 当分は楽しめそうだ。今回は戦国時代の山城の遺構を良く残すとされる若槻山城跡を訪ねた。
三登山林道の登山口からいくつかの土塁を巡る細い道を30分ほども歩くと突然切り開かれた平地に飛び出た。 五の郭だ。続いて四の郭、三の郭、二の郭、本郭と、あたかも棚田のように構築された遺構が折り重なっている。 これだけの大規模な戦国時代の山城は初めて見る。暫し戦国の時代に想いを馳せる。


本郭の案内看板 (全文)

史跡 若槻山城跡 ここは長野市大字若槻東条字城 大字浅川西条
若槻山城は12世紀後半、鎌倉時代の初期に里城とともに若槻頼隆によって構築されたと伝えられている。 頼隆は八幡太郎源義家の孫にあたり、清和源氏の直系である。 父義隆は義家の七男で源頼朝の父義朝の身代わりとなって平治の乱に討死した。 頼隆は従五位下の位階をもち伊豆守と称した。 鎌倉御家人として相模国毛利庄より若槻庄の地頭職としてこの地に移り、若槻氏の祖となった。 平時は里城を居館としており、戦時にはこの山城に籠もった。
主郭(本丸)には防御のための河原石まで置いて先頭に備えた。 また山麓に蚊里田八幡宮のほか御平に正覚寺跡が残されているが、 同寺も若槻氏の創建であり、中世寺院の特徴として土塁も築かれ城館も兼ねていた。
山城の規模・構造は主郭が標高676メートル、南北55メートル、東西25メートルの楕円形で周囲を土塁で囲んでいる。 北川に三条の堀切(空堀)があり、土塁までの高さ約10メートルである。 二本の堀の中間に中核土塁があり、戦国山城の形状が残されている。 二の郭は25メートル×35メートルの方形で土塁に囲まれている。 南に続く大手道には六個の出丸や数多くの削平地があり総面積は6000平方メートルといわれている(東条村誌)
北方390メートル、標高785メートルの地点に番所と称される郭があり、南北22メートル、 東西9メートルを土塁で囲み、巨石を配して尾根筋に数条の堀切を掘って仕切っている。 ここに番兵をおいて山背よりの敵の来襲に備えた。
室町時代には高井郡の高梨氏に隷属して若槻庄もその知行地となった。 応永11年(1404)信濃守護代細川慈忠の入信に反抗して高梨氏とともに争い、このとき山城も陥落した。 (市川家文書)
戦国時代に入ると、この地も甲越合戦にまきこまれ、山城は上杉氏によって整備された。 現在の形状は戦国山城の構造になっている。 その後廃城になったが、広大な構造はそのまま残されており、貴重な史跡である。


本郭までの歩きでは物足りずに尾根筋のさらに高所にある見張り番所まで足を伸ばす。 山道はさらに奥まで続いて三登山に達するようだが、吹き上げてくる風の冷たさに断念してもと来た道を戻る。 途中ラジオを鳴らしながら登ってくるハイカー一人とすれ違っただけの静かな山歩きが堪能できた。

若槻城入口-------本郭-------番所-----若槻城入口
11:45----------12:20--------13:00---------13:50

2006.11.23

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