先週の旭山城址に続いて今週は武田方の旭山城に対する付け城として築城された上杉方の葛山城址を目指す。
葛山城落城に関わったとされる静松寺付近に車を置いて登山口を探すが、これがなかなか見つからない。参道入口にあった看板の地図は全く当てにならない代物だった。
迷い込んだ道は行き止まりだったり、藪の中に獣道のように心細く消えていたりでなんとも心もとない。寺まで戻って庫裡の戸を叩くが生憎と留守。下方に民家があったので尋ねたところ頼朝山と葛山山の方角だけは判明した。
多少時間をロスしてしまったが、せめて頼朝山と葛山を結ぶ尾根道には出てみたいものと気を取り直してもと来た道を引き返す。さきほどは気がつかなかった場所に尾根筋に向かう標識があった。
登山口で正体不明の花を見た。先月戸隠高原で見たのとほぼ同じ姿かたちをしている。ジャコウソウのようにも見えるが????う〜ん判らない!
しばらく誰も通る者がいなかったらしく踏み跡もなく蜘蛛の巣を顔で掻き分けながら歩く。15分足らずで峠に出たが標識が指し示す方向が不可解でしばし戸惑う。設置位置がちょいとズレていることが判明。もう少しで登頂を諦めるところだった。標識自体は立派に作ってあるのだが何たる手抜き!
峠から急な登りが続く。漸く山歩きらしくはなってきたがとにかく蒸し暑い。カミさんが「もうやめようよ〜」と言うのを背中に聞きながら、「リハビリ、リハビリ」と唱えながら謙信公ゆかりの山城跡見たさもあってようやく山頂に到達。
山頂からは先週歩いた旭山を指呼の間に眺め、往時の川中島の合戦を想い描くに十分な眺望を堪能できた。
<山頂の説明看板>
葛山城址 標高810m
葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は、上杉方の重要な前進基地であった。
一方、北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治三年(1557年)二月(今の三月)、越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ一万七千余人の大群でこの城を攻撃した。
城は、高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇敢にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし、城は水が不自由であった。城兵は、敵の目にふれる崖から米を落とし水は十分あるようみせかけた。武田方は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは、山を包み防塁は炎の中に、くずれおちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、二月十五日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは、峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の悲しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には、城主の嘆きを語る祠が安置され、今でも周囲から焼米が掘り出されるという。
春、山頂に立てば、里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。