NPOの総会で信州の佐久を訪れた。会場の野沢館の近くに同名の城跡があると聞いて立ち寄った。
中世に佐久一帯に威勢を張っていた伴野氏の居館跡だ。
周囲を堀と土塁で囲まれてた本郭の中で子供たちがサッカーに興じていたり、
隣の寺には有名なピンコロ地蔵もあって、対立抗争のなかった穏やかな時代を偲ばせてくれた。
鎌倉幕府の政変・霜月騒動で伴野氏の嫡流は断絶し没落するが、その後傍流によって盛り返し、
館を本郭として城として拡張したという。
伴野氏は隣接する大井氏との対立が激化するなか前山城を築いて移る。
この大井氏との抗争で武田に助力を求めたことから武田勢の佐久侵攻を招く結果となってしまった。
東西74m〜85m、南北110mの南北に長い長方形で、周囲に土塁と堀を廻らせた城の主郭部分にあたる。
土塁は北側と西側、東側の北半分が残存し、堀は全周が残存する。南側の中央に入口を設け、
南西の高台に物見櫓を設けていたと伝えられている。
県史跡指定を受けた部分は、鎌倉時代〜室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と考えられている。
また戦国時代頃に館を兼ねた城として増改築されたと考えられている野沢城の主郭部分にあたる。
16世紀末に戦乱のすえ廃城となるが、佐久地方に侵攻してきた有力氏の支配拠点などとして利用された。
江戸時代には官庫・陣屋・藩出張所などとして存続し、明治時代以降は神社境内や官公地として、
現在は公園と境内地として利用されている。
平成14年から16年に環境整備にともない、史跡内の一部と土塁・堀の一部の確認調査を実施し、
南側入口付近で戦国時代と考えられる石積みで補強された土橋と、底面まで緩やかに傾斜する堀が発見された。
東側の土塁の確認調査では15〜16世紀に推定される土塀基部状の石積みを持つ土塁が現在の土塁下部で見つかっている。