水戸義公、徳川光圀は御三家の一として重きをなした水戸藩二代目の藩主で、
藩祖頼房の第3子として寛永5年(1628)6月10日、水戸城下楓町の家臣の家で生まれた。
幼名を千代松、字は徳亮、また観之のち子龍と改め、号は日新斎、常山人、卒然、梅里、隠居後は西山などといった。
兄頼重をこえて6才で世つぎにきまり9歳で元服し家光将軍の光の字をいただいて光圀という名にし、
13才の時従四位下、右近衛権中将、ついで従三位、正保二年(1645)18才の時史記の白夷伝を読んで感激し、
このため兄の子に世をゆずることに決め、大日本史の編纂を思い立った。
この頃までは行いがすさんで、何とも言いようのないほどであったが、
急に行いを改めて、学問にはげむようになった。30歳の時に歴史の編集所を作ってこれに着手した。
寛文元年(1661)34才の時には父頼房が亡くなったので、あとをついで水戸藩主となった。
同12年45才の時には編集所を移転新築して彰考館となづけ、規模を拡大し、
全国から学者を集め、またそれらの人を南は九州のはずれ、北は青森のはてまで派遣して資料を集めさせた。
ここでは大日本史をはじめ礼儀類典、本朝文集、同詩集、扶桑拾葉集、釈萬葉集その他幾多の著述が生み出された。
元禄3年(1690)63才になって致仕し、家督を兄の子綱条にゆずった。この時、権中納言(黄門)に任ぜられた。
翌年常陸太田の西、西山に茅屋を作って住んだ。
(これが現在残っている西山荘である)隠居して自由の身になったので社寺や民間の人とも気軽に交わり、
旅行などもしたので逸話をうむことになった。
同13年(1700)12月6日、西山で亡くなられた。年73、常陸太田の瑞竜山へ儒礼により葬り義公とおくり名された。