長野氏の箕輪城の防御ネットワークの要として武田勢の猛攻に曝された倉賀野城。 武田滅亡とともに織田方に、本能寺の変後は北条方に、そして 小田原征伐の際には北条方にあって北国軍に降伏して廃城となった。 遺構はほとんど残っていないと聞いたので後回しにしてきたが、 生憎の小雨に身を持て余して、場所だけでも確認しようと訪れた。 烏川の流れが洗う崖上に築かれた本丸からは武田方が築いた根小屋城跡が遠望できた。
治承年間、武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に来り 居城を構え以来倉賀野を氏となす。 應永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩ふ。 為に倉賀野三郎光行防御急なるに迫られこれを改修し要害をなす。 斯くして高祖三郎高俊より400年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く。 然るに時移って戦国動乱の世を向ふるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへども 噫々武運は空し天正18年相州小田原に討死。城も亦ともに攻防の歴史を閉づ。 今先人の足跡まさに消えなんとするに当り懐旧の情禁じ得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ。 天日ここを照せ大地よここを抱け