武田信玄が上州に侵攻したルートを逆に下仁田経由で佐久に向けて車を走らせた。 地理的に下仁田辺りにも戦国期の城址があってもよさそうだと考えているのだが、 事前の下調べでは確認できなかった。郷土史博物館に立ち寄って尋ねたところ、 鷹巣城址というのがあって発掘調査を行ったとのことだが、現在は公園になっていて何も残っていないとのこと。 公園を見学しても仕方が無いので暫し館内の展示物を観覧。
博物館には幕末に起きた下仁田戦争の資料展示があり、水戸天狗党の事件を思い起こさせてくれた。
天狗党は追撃してきた高崎藩兵を一蹴した後、内山峠を越えて佐久に入ったが、我々はトンネルを通って楽々と佐久に抜ける。
目的地の内山城はすぐに見つかった。かって居館があったと思われる絹笠神社の脇の鬱蒼と茂った竹藪の道から登り始める。
竹林が矢竹の藪に変わり暫しの急登、そして何段かの段郭を右に見ながら進むと眼前に岩壁が現れる。
いまにも矢玉が頭上から降り注がれるような錯覚を覚える。岸壁を巻いて上を見上げると木々の間にそそり立つ断崖が透けて見える。
城の主要部は断崖上にあって、この方面からの攻撃はほぼ不可能と言っても良い。
この城は水の手を断たれて降伏したというが、肝心の井戸の所在を確かめることはできなかった。
山頂の本郭からは黒い地肌を表し始めた浅間山がのどかに眺められるが、
近くの射撃場から間断なく響く銃声が武田軍の猛攻を想像させた。
佐久には内山城の他にも平賀城や志賀城、前山城、
稲荷山城など、信玄ゆかりの城跡が多く、
高速道の料金が一律1000円になることもあって、暫らくは佐久通いで楽しめそうだ。
内山城は、
永正年間(1504〜21)に、大井美作入道玄岑が築城したと思われる。
その後天文15年(1546)に武田信玄は、佐久の諸城を奪って植原伊賀守昌辰を配した。
天文17年(1548)、佐久に侵入した村上義清の軍としばらく攻防戦が続いたが、
信玄自身が諏訪から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正10年(1582)に武田氏が滅亡し、佐久の諸城が次々と徳川氏の手に帰していくなかで、
内山城も同12年に家康の麾下依田信蕃らの手によって攻略された。
比高80メートルに及ぶ断崖上にある城の縄張りは、比較的よく保存されており、
石塁も各所に残っている。ほぼ三角状をした本丸の北に、一段づつさがって二の丸・三の丸が続き、
さらに急斜面に小さく築かれたいくつかの郭を経て、堀切・水の手がある。