江戸末期まで残った城は何処でもそうだが市街化の波に呑み込まれて原状を留めていない。
前橋(厩橋)・高崎・沼田、そして館林も例外ではなく、土塁や堀などが申し訳程度に保存されているのみ。
ましてや戦国期の遺構など望むべくもない。
戦国期には越後の上杉氏と小田原北条氏の勢力争いのなかで翻弄される。
謙信によって城主に据えられた長尾顕長は兄の由良国繁とともに北条氏に通じて佐野宗綱を討ったが、
北条氏政に謀られて城を奪われてしまう。その後和解して復帰したものの、
再び北条に謀られて明け渡す破目になってしまった。
館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、
城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、
稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の大地に「城下町」を配置し、
そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに、
「赤井照光」によって築かれたとされるものがあり、「狐の尾曳伝説」とあいまって
広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は、
現在まで発見されていない。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、
文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立つ林(館林)城」を攻略したという記録である。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、
「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
天正18年(1590)の徳川家関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、
「館林」は、利根川を抑えることができる東北方面への要所として、
また、徳川綱吉が5代将軍となってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、
江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており
三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入り口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により3基の門の基礎と2基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土塁」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。