昨年、松井田城址で出会った山城研究家の宮坂先生より賀状をいただいた。
それによると群馬の城砦を昨年だけで200箇所調査されたとのこと。
熊除けの鈴を鳴らしながら巻尺を伸ばして計測していた先生の姿が眼に浮かぶ。
200城にはとても及ばないが、群馬の城跡を歩き始めてから昨年末で35城を訪れた。
「謙信ゆかりの」ということで巡ってきたが、群馬ではそろそろネタ切れで、
埼玉や栃木にも足を伸ばさざるを得なくなっている。
そんな折、捜し求めていた「群馬の古城(中・東毛編)山崎一著」をネット通販で入手することができた。
そこで紹介されていたのが「高津戸城跡」。
謙信が訪れた城ではないが、
謙信の支援を受けて仇討ちをしようとした里見兄弟の悲話が残っているということで訪れた。
久々の山城らしい山城歩きを楽しむことができたが、
搦め手の尾根道を歩くと突き当たりにゴルフ場があるのが興醒めではあった。
高津戸城は、堀河天皇の御代、寛治年中(1080年)頃、山田七郎平吉之が創立した。
その後、10代目の則之は桐生国綱によって滅ぼされた。正平6年(1351年)6月のことである。
里見家の7代、義連の三男氏連が仁田山八郷に入ったのは
建徳2年(1371年)で国綱の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。
仁田山城は以前は山田氏の居城であった。また、氏連より四代後の宗連は越後の上杉謙信に責められ自刃した。
天正2年(1574年)9月のことである。
房州の里見実堯(勝広)は仁田山に住む一族の宗連の許に身を寄せていたが宗連の没後桐生に移って桐生氏の客分となるが、
実堯は二子、勝政と勝安を上杉謙信に託した。
ところがこれが桐生親綱に誤解され元亀元年(1570年)3月20日に詰め腹を切らされた。
越後の上杉謙信の元にいた兄弟は親の仇を打ちたいと天正4年10月(1576年)に高津戸城に隠れ、
その翌年5月2日用明の砦を襲ったが念願果たせず由良国繁の怒りを受けて天正6年9月18日無念の涙を流して討ち死にした。
里見随見勝政28歳、弟の勝安25歳の若さであった。兄弟の墓や山田氏の墓は要害山のふもと阿弥陀堂に静かに眠っている。
要害山神社はその昔、金毘羅宮と呼ばれ、自音寺第七世の住職高海承認が四国の金毘羅宮に参籠していた時、
不思議にも夢中に金毘羅神王の尊容を拝した。
また、要害山の山姿が象頭山にていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。
この金毘羅宮(現在要害神社)は零件あらたかで近郷近在の老若男女の参拝者でにぎわったと
文政5年の自音寺の古記録にのこされている。