群馬三大梅林の秋間梅林を訪れたついでに松井田城址を再訪した。
前回は廻れなかった安中郭を中心に見ておきたかった。
松井田城は越後新発田より移ってきた安中忠親によって築かれたとされる。
武田勢の侵攻圧力が高まり周囲の武将が武田方になびく中、
長野方に属する安中忠政は安中城を築いて嫡子忠成を置き、自身はこの城を修築して守りを固めた。
永禄7年(1563)、信玄は安中・松井田両城に同時攻撃をかける。
安中城を守る嫡子忠成はすぐに信玄に降って許されたが、
松井田城の父忠政は徹底抗戦し、二の郭まで攻め落とされたところで降伏した。
武田勢に多くの犠牲者を出したために切腹を命ぜられた。
忠成はその後武田家に仕えて一族とともに長篠で戦死している。
安中郭が安中忠政当時の本郭だったと言われ、現在の本郭は北条氏の武将・大道寺政繁がその後に拡張した城域とされる。
それにも関わらず、安中郭に「大道寺駿河守政繁居城跡の碑」の石碑が建立されているのが不思議ではある。
そういえば、説明看板の中にも「安中氏」の文字は無い。
この城跡は、松井田町大字新堀、高梨子および新井に位置し碓氷川と九十九川にはさまれ、
標高およそ250m〜410mの尾根上に築城された戦国期の大きな山城です。
城跡の主要部は、およそ東西に1q、南北に1.5qにおよび、ところどころを堀切で断ち、
その間に10ヵ所ほどの郭が並んでいます。
この城は、数度の改修がなされ、北条氏支配の天正年間には大道寺駿河守政繁が城主となり大改修拡張し
、現遺構のように完成し北条氏(小田原)の築城法を示す典型的な山城となりました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らにせめられ落城しました。
落城後も、城としての遺構をほぼ完全にのこしている県内はもちろん全国的にみてもきわめて重要な城跡です。