池波正太郎の長編小説「剣の天地」の主人公の城を訪れた。
剣聖と呼ばれた新陰流の開祖である上泉伊勢守秀綱生誕の城だ。
平城だし、近いのでいつでも行けるということで後回しにしてきたが、
寒天の空、雲雪も怪しいので「安・近・短」の城ということで行ってきた。
案の定というか予想通りというか、城域は宅地や畑・畜舎に占拠されていて、
本丸跡が一段高く画されている以外にこれといった遺構はなさそう。
周辺を探索すれば多少の名残は発見できそうだが、
漆黒に輝く秀綱像を見ただけでなんとなく満足してしまった。
剣聖と呼ばれる上泉伊勢守秀綱(後に上泉武蔵守信綱)は、
永正5年(1508年)に大胡城の支城である
上泉城で生まれました。
平成20年(2008年)生誕500年を記念して剣聖上泉伊勢守像を建立しました。
この立ち姿は、新陰流の「無形の位」という代表的な構えで、手には袋竹刀を持っています。
骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
幼少のころから剣の修業を重ね、松本備前守や愛洲移香斎ほかに剣の指導を受け、新陰流を創始しました。
現在の市内の原型となった袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、
切りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、
箕輪城主長野業正とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、
「上野一本槍」と呼ばれました。
京にのぼり、将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、上杉伊勢守兵法天下一」と感状を受けました。
また、正親町天皇の御前で天覧演武を行い、従五位下から従四位下へ昇叙され、天皇ご愛用の御前机を拝領しました。
さらに、公卿の山科言継卿との親しい交友も知られています。
柳生宗厳(後に柳生石舟斎)や宝蔵院胤栄や丸目蔵人佐ほかおおぜいの弟子に剣を指導して、
新陰流は全国に広まりました。
そして、一国一人とした新陰流の後継者には柳生宗厳を選び新陰流のすべてを印可相伝しました。
こうして新陰流は、柳生家により受け継がれています。
上泉伊勢守の精神は「活人剣」であり、人を活かす精神として徳川300年の礎を築き、
明治・大正・昭和の時代を経て脈々と伝わり、そしてこれからも末永く、広く人々の生活や仕事など
多方面に活かされていくことを願ってやみません。