攻防戦の訓練場か、はたまた軍学者の築城モデル展示場か、
そんな錯覚に陥るほどに様々に駆使された築城技術を眼前にして思わず感嘆の声を上げてしまった。
しかし、横矢掛けや虎口、空堀、馬出、郭や土塁、土橋など一つ一つの構造物がこじんまりとしていて、
そんなに広くはない城域に収まりよくレイアウトされている。
自然地形に合わせて突貫工事したように見えて、実は緻密な計算がなされているようでもある。
堅城のように見えて、実は攻め易いかとも思われてしまう。
そのためか妙にアンバランスな感じを受けてしまう。
しかし「中世城郭の教科書」といわれているそうで、実際こんなに見事な山城は見たことがない。
現代であればパワーショベルとダンプカーがあれば簡単にに出来上がってしまいそう。
この城の歴史に思いを馳せるというよりは、土木工事に関心が向いてしまった。
城郭研究者の間では「杉山城問題」という、
縄張研究派と考古学派との間でこの築城時期をめぐっての論争があるそうで、
こちらも興味深いものがある。
この城跡は、戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。
総面積は、約8ヘクタールにも及び、山の高低差を巧みに利用して十あまりの郭を理想的に配置しています。
まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも屈指の名城と評価されています。
現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。
「馬出」や「枡形」の塁線を屈曲させて構える
「横矢掛かり」の多用はその典型とされるものです。
また、城の立地についても、北方に越畑城・高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を
見下ろすという絶好の条件を備えています。
当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。
築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では、松山城主上田氏の家臣杉山
(庄)主水の居城と伝えています。
この城跡は、すべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。
文化財保護にご理解いただき、利用、見学をしていただくようお願いいたします。