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吉井町・奥平城址

奥平城址

長篠の戦の際に長篠城に篭城した武将がこの城を発祥の地とする奥平貞昌だ。 信玄の死後、武田家を見限って徳川についた貞昌が 最前線の長篠城に配されたために武田勢の侵攻を招いた。
1万5千の武田勢に包囲されて僅か5百の兵で抗し続け、家康と信長連合軍の救援を待った。 連合軍は3万8千の大軍で押し寄せた。 この時の戦が鉄砲の三段撃ちで武田騎馬隊を殲滅したとして有名となった長篠の戦。
この戦は結果的に武田家滅亡の契機となり、長篠城を死守した貞昌はこの戦功により信長の一字を賜り「信昌」と改名、 家康からは長女の亀姫を正室に迎えることになった。 外様でありながら破格の待遇を受けた奥平家は幕末まで大名家として存続している。
どのような理由でこの地を離れたか分からないが、 三河で力を蓄え、最初は今川に、次いで松平(家康の祖父)、そして今川、徳川、武田、再び徳川へと主を変えて家名を存続させている。 奥平の先祖の地の竹藪に覆われた小さな城跡を歩き、これも戦国の武家のありようかと考えた。

2008年12月7日

現地説明看板

奥平氏の祖赤松則景は源頼朝の挙兵に応じ鎌倉に上る。 子氏行は甘楽郡司となり12世紀末奥平村に築城し奥平氏と称した。 6代定政は郷士を率い新田義貞に属し建武中興に功があった。 その後、子孫は南朝方で活躍したが14世紀末8代貞俊は三河国(愛知県)に移った。 奥平在城は200年に近かった。 城跡のほか九台に環濠屋敷跡、武道原、止め場などの地名や、 古碑、古塔が盛時を物語っている。

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