昨年はあちらこちらで見かけた「風林火山」の幟が小笠原長時の本拠地の城山の入口に掲げられていた。
NHKの大河ドラマ人気でこの林城に訪れる観光客も多かったのかもしれない。
それにしても昨年1年前の幟がそのまま放置してあるなんて・・・・
名門意識が強くて我儘だと言われた長時は、塩尻峠の戦いでは家臣の離反もあって武田勢に惨敗。
以来退勢を挽回することはできず、信玄の侵攻に対してこの林城で一戦することもなく村上義清を頼って落ち延びている。
城郭自体は必ずしも堅固とは思えないが規模は大きく、本郭につながる尾根筋に構築された何段もの段郭群や、 帯郭から本郭に向う石段と門柱と思われる礎石に信濃守護大名の本城の誇りのようなものを感じた。
南北朝騒乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、
戦国時代に武田晴信が信濃に進攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。
その間小笠原氏は、平地の居館である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、
林城の東に深く入り込む山辺の谷には、桐原城・山家城を配して小県佐久地域に備え、
北方は伊深城・犬甘城・平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地域に通ずる南方の要には埴原城を構えるほか、
筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞群をなしていた。
その後、それぞれの城は武田方により修築が行われたものと思われるが、竪堀の構造・配置など、
小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、これらの城塞群は、
小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である。 ( 長野県教育委員会 )