雪融けを待って上越国境を越えた。今年はとりわけ春が待ち遠しかった。
三国峠を越えて関東に侵攻した謙信とは逆に群馬県側から新潟に入る。
目指すは越後六日町の坂戸城跡。
来年のNHKの大河ドラマが直江兼継を主人公とした「天地人」ということで、
兼継生誕の地を訪ねてみようということなのだが、
坂戸山城址は新幹線の車窓から眺める度にかねてから気になっていた山でもある。
地方にとってNHKの大河ドラマの舞台になるというのは観光客誘致の最高のチャンスだ。
早くも「天地人」のPRのぼりが目抜き通りに掲出されている。
実城に向かう長大な薬師尾根で何組もの地元のグループと思しき人々とすれ違った。
この坂戸城跡、市民からは格好のハイキングコースとして親しまれているようだ。
「風林火山」の川中島古戦場は、放映時こそ観光客で賑わったが、
放送が終わるとともに再び閑古鳥鳴く公園に戻ってしまった。
少なくともこの坂戸城跡はそんなことにはならないだろう。
幾つかの郭はカタクリの花で埋め尽くされ、コースのそこかしこにイカリソウ、イワカガミ等の花々、
そしてコブシやツツジの花が美しい。
山頂の実城からは平野を流れる魚野川の先に残雪を被る上越国境の山々が眺められた。
振り返れば八海山をはじめとする越後の山並みも白く輝いている。
およそ3時間の山歩き、景勝や兼継も眺めたであろう雪国の遅い春を堪能した。
坂戸城のはじまりは定かではないが、南北朝時代(14世紀)、越後守護上杉氏の家臣長尾氏の一族がここ上田荘に入り、
鎖国支配を始めたと伝えられている。
以後、上田長尾氏は守護代長尾氏と並んで越後の国に重きをなし、坂戸城は越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。
上杉謙信の父守護代長尾為影と守護上杉氏が争った永正の争乱期(16世紀初頭)、
長尾房長によって山頂部から山麓部にかけ本格的な山城が造られた。
その後も上田長尾氏は守護代長尾氏と協調しつつも独自性を保っていたが、
1551年(天文20年)、房長の子正景(謙信の義兄)は謙信と盟約を結び、臣従するに至った。
謙信の養子となって春日山にいた政景の子景勝は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(1578〜79年)で
景虎(北条氏からの養子)を破って越後国守となり、坂戸城は景勝によって大改修が行われている。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉による景勝の会津への国替えに伴い、堀直竒(なおより)が入城したが、
1610年(慶長15年)信濃国飯山に移り、坂戸城は廃城となった。
山頂部一帯の郭を実城(みじょう)と呼び、山頂から派生する尾根には主水郭(もんどぐるわ)・大城・小城・寺が鼻郭、
実城から北へ下った桃の木平には広大な郭がある。山麓には石垣をもつ居館跡の御館(おたて)・家臣屋敷跡、御館の南方、
薬師尾根の北側中腹には御居間屋敷(おんまやしき)と呼ばれる屋敷跡がある。家臣屋敷跡と魚野川の間には内堀跡があり、
埋田と呼ばれている。御館などの石垣は堀氏時代に気付かれたといわれている。