謙信に関東管領職を譲った上杉憲政の居城・平井城の詰城だったとされる金山城。
本来なら平井城址を訪れた折に同時に攻めるべきなのだろうが、
その時は時間が無く攻め口を下見しただけで引き揚げたのだった。
「中世紀室町時代の古城平井詰城(金井)城の遺構見学登山道」なる丁寧な入口標識が設置された
登山口から入ると暫くは美しい竹林の中の林道、そして続いて杉林となるが、
こちらは必ずしも手入れが行き届いているとは思われない。
杉林の中には何段かの削平地があって、その周囲は苔むした割り石で土留めが施されている。
防御施設の遺構とも思われないので屋敷跡か何かだろうか。
しかし、城址の趣が窺えるのはそこまで、あとはひたすらの登り道を約30分、尾根筋に踊り出た所が物見台跡。
木々に遮られているものの確かに展望は良い。
物見台跡の説明看板の一句
「見渡せば 関八州も 一眺め 筑波の山の 見ゆる日もあり」
愚将と嘲られることの多い憲政もこの風景を眺めたのであろうか。
そんなことを考えながら、寒風の尾根筋を歩く。
堀切や虎口跡の石碑はあるが期待したほど明瞭でないのが残念。
本郭には金山城を中心に周囲の支城や史跡の方角や距離を表示した看板が煩い。
漸く山城の趣を見せ始めたのは主郭から井戸曲輪方面に下り始めてからだった。
一部が修景整備されたらしく、堀切や土橋、虎口、曲輪の様子が明瞭に見てとれ、井戸跡も復元されている。
憲政はこの詰城に拠って一戦も交えることも無く越後に落ち伸び、
謙信に関東管領職を譲ることになるのだが、仮に数千の兵をもって
この城に籠ったとしても落城は時間の問題であったろうと思われる。
その意味では命を拾ったことになるのだが、
謙信死後の御館の乱では自分を追った北条氏康の実子である景虎方に味方したために
結局は命を落としているのだから、人の運命というのは分からない。
1時間足らずの山歩きを歴史に思いを馳せながら堪能した。