「上州の名将は?」と問われたら、迷わず「長野業政」と答える。
愚将としか言いようの無い関東管領上杉憲政に最後まで忠義を貫き武田勢の侵略に抗して戦った武将だ。
業政公のお墓が現存することを知り、長野氏
累代の菩提寺・榛名町の長年寺を訪れた。
長野氏の墓所には5基の墓が建てられており、業政公は右から2番目の墓石で「一清長純居士」と刻まれていた。
中央の一番大きい墓石はこの地に移り住んで鷹留城を築いた祖父にあたる尚業公のもの。
墓所の背後はるか遠くに浅間山が白い山肌を見せている。
鷹留城址は長年寺の背後の山中にあるが、入山口が不明なので交番で尋ねることにした。
昨年末にも新潟から研究者が調査に訪れたとかで丁寧に教えてもらえた。
大手口のある南側からは車での侵入は困難ということなので、
城址の北側を走るフルーツラインに廻って入ることにした。
鷹留城址の入口表示はすぐに見つかった。城址まで0.3kとある。
しかし、城域に入ると案内看板は一切なく、林道を左折して暫く歩くと土橋の遺構に出くわした。
右側は竪堀となって深い谷底に落ち込んでいる。
見事な遺構に驚喜して笹藪の道をさらに進むがフルーツラインで分断されてしまっているようなので引き返す。
再び土橋を渡って郭跡らしい削平地を藪をかき分けて進むが倒木等で荒れ放題。
「笹鳴くや城址は今も濠ふかく」という歌碑が藪に覆われつつある、まさにそのままの状態。
踏み跡をたどり木の間を透かすと高い土塁の上に石碑が見えた。
本郭跡に建立された武田勢との攻防戦の折の戦没者の慰霊碑だ。
永禄9年(1566年)名将長野業政の死を察知した武田信玄率いる2万の大軍の激しい攻撃を受け、
内応者の裏切りもあって鷹留城は陥落、2日後に箕輪城も陥落し、長野氏は滅亡した。
フルーツライン建設で搦手側の遺構が失われているためもあってか
この城の堅城ぶりがイマイチはっきりしなかったのだが、
大手口方面から林道を歩いてみて改めてこの城の凄味を実感した。
かっての町起こしの一策だったのであろう、城内のあちこちに歌碑が建立されているのだが、
必ずしもこの城との関係性もなく、現在は顧られることもなさそうなのが物悲しい。
鷹留城は、中世永禄期(1558〜69)の中規模山城の典型であり、本丸以下の曲輪、 虎口、大手口、搦め手口、井戸、堀切等の各種遺構が原型に近くのこっている 点では県内まれな城跡である。 明応年間(1492〜1500)長野業尚築城。永禄9年(1566)9月武田信玄勢のために落城 (城主業通)。長野氏四代70余年の居城である。 並郭式であり、南北430メートル、東西300メートル、本丸高さ東谷より70メートル。 東南の菩提寺長年寺に長野氏累代の墓がある。