信濃守護、小笠原氏の清宗から長時に至るおよそ90年間の本拠地だった林城。居館があったと考えられている大嵩崎集落を馬蹄形で囲むように林大城と小城とが構築されている。
武田晴信の侵攻に際して戦わずして自洛してしまったという印象が強いためか、大城の方は虎の威を借るではないが、威を借る張り子の馬のようなイメージだ。上に登るに従って広さと数を増す郭が段々畑に見えてしまうから不思議だ。
小城の方は大城とともに居館への入口を扼す位置にあり、守備よりも攻撃に配慮した造りになっているように思える。尾根筋は幾重もの段郭で防備しているが、谷間や竪堀は攻撃用に構えられている。居館の区域に侵入する敵があれば一気に下って背後を突ける。
ただ、小笠原系の山城の特徴とも言える主郭背後の大堀切は深く切り込まれているものの、南側に続く尾根筋は手薄と言わざるを得ない。
これは林城の南方に築かれた埴原城の堅固さを頼んだからと考えられる。
村井から出撃した武田晴信が落としたイヌイの城は犬甘城だとするのが通説になっているが、私は従来説の埴原城だと考えている。
武田勢と小笠原勢との戦いは埴原城付近で行われ、小笠原方諸城をはじめ安曇野からも援軍が駆けつけていたのではないか。
戦死を伝えられる武士はここで援軍として戦ったのではなかろうか。
堅固な埴原城が落とされたがために林城をはじめとする五城が自洛したのだ。
いつかの機会にイヌイの城は犬甘城ではなく、埴原城であることを論証しようと考えている。
2024年1月22日