西山城は一の曲輪、二の曲輪、そして三の曲輪からなっているとされるが、事前に縄張り図を見ていかないと二の曲輪に到達したところで、ここが主郭と勘違いしそうだ。
主郭の背後は松本・安曇平の山城にお約束の大堀切が尾根を断ち切っていて前進を阻んでいる。
二の曲輪が旧来の主郭で、ここまでは連郭式の築城法で古くからの遺構と思われる。
二の曲輪からは二重の大堀切を経てなだらかな尾根道を約800mほど奥に進むと三の曲輪がある。
三の曲輪は一・二の曲輪とは全く異なる築城法で、武田氏によるものとされる。
仁科氏の惣領盛政が信玄によって成敗され、信玄五男の盛信が仁科氏を継いだが一族・家臣の中には反武田の意識も根強かったのか、これに備えるために築城したのが三の曲輪だとされる。
防御上の連携性はほとんど配慮されていないようにも見え、むしろ一と二の曲輪を監視しているかのような位置取りだ。
印象的には三の曲輪は独立した山城だと考えることもできる。北に向かって腰郭や段郭などが構築されており、北の仁科領を警戒しているようにも見える。
武田氏が仁科領を制圧したとはいえ、抗争時代の余韻がまだくすぶっていたのであろうか
一・二の曲輪群とは間延びした距離感と緊張感があるなんとも不思議な一城別郭の山城だ。