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岩原城跡

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 岩原城の最後の城主は堀金盛広と言い、戦国末期に越中に逃れて僧侶となって砺波に勧帰寺を開基した。その子孫は現代に至るも連綿として続き18代を数える。忠広の数奇な人生を辿ってみた。
 忠広の祖父は大町を中心として勢力を張っていた仁科盛国の四男で、仁科氏と小笠原氏の長い抗争の後に生まれた平穏な時期に堀金に進出して居舘を構え、詰め城として堀金城を築城、山麓に安楽寺を開基した。しかし、武田氏が信州に進出して深志城を攻撃した折に、小笠原方の先鋒として戦って戦死する。
 盛公の跡を継いだのが父の政氏で、武田氏の再度の侵攻に際して出仕して、以後の戦いでは武田軍の先手を務めて平瀬城や小岩岳城の攻撃に参加する。飯森氏が滅亡した平倉城攻めでは戦功をあげて長子の利秀は千国六ヶ村を与えられて千国丹波守利秀を名乗り黒川城主となった。しかし、盛公は第四次川中島合戦において戦死してしまう。
 政氏の跡を継いだのが次男の盛広だ。仁科直系の総領・盛政は川中島にて謀反の疑いありとして信玄に成敗されてしまったので、盛広が仁科一族の筆頭の立場に立つことになった。
 仁科同族の渋田見氏の菊姫と婚姻、一子・盛千代をもうけた。しかし、このあたりから雲行きが怪しくなったようで、盛広の動向についての解釈も曖昧になる。武田氏に無断で同族の渋田見氏と婚姻関係を結んだことが咎められて失脚しての逃避行か、あるいは武田氏が滅亡して小笠原氏が復帰したので復讐を恐れて逃亡したのか、真相は定かではない。ただ、その後の小笠原貞慶による仁科一族憎しの壮絶な復讐を考えると、盛広の判断は正しかったと言えるだろう。
 越中砺波への逃避行は烏川谷を遡上して旧中尾峠を越えて飛騨側に入り、山中を北上して唐尾峠から越中に入り有峰を経て砺波に至るという道筋ルートと考えられている。 妻子を伴っての逃避行は苦難の連続であったことだろう。  安楽寺の住職の伝を辿って勝満寺に落ち着いた盛広は剃髪して釈照順と名乗った。同じ頃、黒川城主となっていた兄の千国利秀は上杉勢の攻撃を受けて戦死していた。5年後、村人に求められて青嶋村に勧帰寺を開基した。照順の跡は一子・盛千代改め順見が継ぎ、現代に至るまで18代を数える。

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