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松本市 波田山城跡

町指定史跡(昭和47年11月1日指定)
波田山城跡(秋葉城) 標高970.5m 比高差240m

波田山城

波田山城 波田山城 波田山城

現地案内板

波田町上波田光明寺峰にある山城跡は南北に細長い山頂の尾根を「堀切」にした深さ約5mの「竪堀」でそれぞれの郭に分割造営されている。中央の本城(主郭)が最も高く、次いで北城、南城と南北に横並びで連立している。各城郭の山腹には3段から4段の「帯郭」が取り囲み、「腰郭」「馬溜まり」の平場も作られている。 本城(主郭)は南北の長さ約44m・東西の幅約8〜16mの長方形で、四方の縁には土塁が巡らされている。南寄りに「井戸の跡」と呼ばれる窪みが有り、昔は水が湧き出していたという。

本城の中央に秋葉神社の小祠が祀られたことから城の別名となった。本城に築かれた土塁の切れ口の一部が「虎口」と呼ばれる郭の出入口で、直下には5mの四角形の「馬出」らしき平場が設けられている。なお北城と南城には土塁は作られていない。山城の大手筋は北城から北尾根を下り、寺山水道沢から、「御天城」(町浄水場)布巾を経て上波田集落の内城(西光寺城跡)に出る道筋が大手道とみられる。「搦手筋」は、城の南側の沢道に下り水沢川沿いの若澤寺参道(大木戸)に出るのが搦手である。

 中世豪族の武将と家臣団が日常生活を営む場所は山城の山麓の根城(内城・根小屋)であり、山城は「詰城」として、平時は物見番を置き、非常時に非難して戦闘に使用したという組み合わせが一般的である。したがって装備も質素なもので、後世の城郭のような壮麗な天守や瓦屋根に白壁等はなく、粗末な板張りの山小屋に萱葺きか桧川ぶきの屋根で、丸太の物見櫓、縄文、矢倉、板塀、木柵などが施され、空堀の土を掻き上げた城郭であった。

山城には15世紀以後の室町から戦国時代に発達した「竪堀」の工法や「馬出」などの施設が見られる。伝承によれば、文化年間(1804〜17)に近くの若澤寺造営の際、山城の石垣を取り壊し使用したともいわれ、石垣は戦国末期の工法で或。{波田町誌}によれば、寛政3年(1462)ごろに守護小笠原氏の一門櫛木市正一俊が波田郷地頭となり西光寺内城と、波田山城を築き、飛騨・木曽方面の境を固め、対岸の西牧氏(梓川村)に備え、子息紀伊守政盛まで2代在城したといわれている。

 戦国時代には小笠原長時の旗下波田数馬が城主であった。武田氏に破れた後は、甲州の深志城代日向大和守により天文21年(1552)に山城と内城は破却されている。

2023年4月25日

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