安曇野案内人倶楽部の自称戦国惚けガイドとして岩原城址を案内しました。 しかし山城を登りながらのガイドはことのほかキツいものがあります。 そんなときにほっと一息付けるのが現地案内看板です。 読んで貰っている間に息を整えてから、内容を補足説明できるからです。
12月10日
安曇野の西山山麓堀金の地は、古く数千年前の縄文時代から人が住み始め、以後耕地を開拓していく
つかの集落が営まれて戦国時代に岩原城が築かれました。登り口までの途中には、残った石垣で安楽寺・
大同寺などの寺跡が見うけられ、周辺一帯のお寺などを防御施設として築き、全体で岩原城が守られて
いたものと思われます。
全国各地で領地をめぐり勢力争いがおこる戦国時代にあって、十六世紀中頃までに北安曇に勢力を張
ていた仁科氏の一族がここ堀金の地に進出し、以後三代にわたり堀金氏を名乗りこの地を支配しました。
ここから東の堀金上堀に館を構え普段はそこで生活し、いざ戦いとなる場面では、西山尾根上に岩原
城を中心とした防御の陣を敷いていました。
武田信玄の信濃侵攻に際していち早く従属した堀金氏は、武田氏の家臣として川中島の合戦などに出
兵活躍し、一時は北安曇までその勢力を伸ばした時期もありました。
おそらくは、武田氏の安曇郡支配の拠点として、この岩原城は現在も残っているように堅固で充実し
た山城となったのでしょう。1573年の信玄の死と織田氏による武田家滅亡の動きは、堀金氏にとっ
ては大きな影響を及ぼし、急激に力を失い没落の道をたどります。ついに天正九(1581)年に至り、
堀金氏第三代の平太夫盛広は越中の寺を頼りに落ち延びていったと記録が残されています。
現在は城址が残るだけとなっていますが、仁科氏の一族として進出し、武田に加わっては有力な武将
として力を示した堀金氏三代と今に残された岩原城をウォーキングトレイル(遊歩道)を通じてお楽し
みください。
岩原自然と文化を守り育てる会