日岐城の最後の城主・日岐盛武について興味深い話がある。
小笠原貞慶は松本に復帰後、天正10年8月から川中島方面への重要な道杉である犀川筋に勢力をはって小笠原に従おうとしない日岐丸山氏の征伐に取り掛かった。
貞慶自ら出陣し、深志口から5000人、下流の牧野島口から5000人、平出口から2000人で攻め立てた。
日岐盛武は激しい攻撃を何度も撃退したが城を脱出して、兄盛直の日岐大城に立て籠った。
しかし貞慶は城兵の一部に調略の手を伸ばし叛乱を起こさせたために、盛直・盛武兄弟と穂高盛員らは上杉景勝の下に亡命した。
この時穂高盛員の父・盛棟は戦死したが、その妻(盛武の妹・盛員の母)は捕縛され、貞慶は一族の頼定の後妻にさせた。
貞慶は徹底抗戦した盛武と穂高盛員(盛棟の子)の武勇を惜しみ、盛棟の妻を通じて帰属させようとした。
しかし、盛棟の妻はこれまでの貞慶のやり方をみると信用できないと断った。
これに対して貞慶は日岐盛武と穂高盛員宛に身上を保証する起請文を認めたので、二人は上杉方を離れて小笠原方に帰参したという。
日岐盛武は帰参の手土産に上杉方の芋川城を攻略したという。