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山名城址

駒

戦国時代の幕開けとなった応仁の乱で知られる守護大名山名氏発祥の地が高崎にあり、 城址が残っていると知って訪れた。
まずは山名氏の痕跡を求めて麓の山名八幡宮へ。早速眼に入ったのが境内の神馬像。
説明看板によれば、この八幡宮を造営したのが応仁の乱の指揮を執った 山名宗全の祖・山名義範で、義範は新田氏の祖・新田義重の子でこの山名郷に入り山名氏の祖となったとある。 この神馬像は全国の山名氏の末裔が奉納したものだとか。
八幡宮の背後にある山名城もこの義範が築いたとされる。 八幡宮からも登り口があるのかもしれないが、見つけられないので山上碑側から入る。 山上碑は上毛三碑の一つとして国指定特別史跡になっている貴重な石碑だとか。 古墳 三碑の中ではもっとも古い西暦681年の建立で、傍らの古墳の墓碑だとされている。
城址は山上碑から快適な山道を枯葉を踏みしめて10分足らず。 数条の堀切と広い本郭が視認できた以外は藪に阻まれて確認できなかった。 矢竹も所構わず茂り放題、弓矢の材料には事欠かなかったことだろう。
山名城址からさらに尾根筋を1キロ程も歩けば武田方の根小屋城址があるが、 これは次回の楽しみとすることにして、 所々にある万葉の歌碑を読みながらもと来た道を引き返した。

2007年12月23日


山名城址(現地説明看板)

源義家の孫新田義重(1116−1202)の子義範は、 この城に拠って山名氏と称し、以後八代山名城を護ったという。
東西450m、巾の最も広いところは二の丸の部分で南北130m、 この城は築城法からみて、弓矢だけの時代でなく鉄砲が使用された 時代の普請であることがわかるそうである。 南北朝時代信濃南朝方の関東での橋頭保として、寺尾上城(乗附)、 中城(寺尾)と一連の名称で寺尾下城とか前城と呼ばれている。 それにもかかわらず前二城よりはるかに進歩した築城法によって 作られているのは、この城が戦国時代になって、木部城の要害城として 改築されたためである。

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