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上州・名胡桃城

名胡桃城跡 名胡桃城跡

この城は秀吉による小田原征伐のきっかけとなった歴史的な事件のあった城。
天正17年(1589年)、沼田の地をめぐって争っていた北条と真田は、 沼田一帯を北条に割譲するという豊臣秀吉の調停で和議をすることとなった。 だが、真田昌幸は、「名胡桃は父祖の墳墓の地」という大うそをついてこの城を手放さなかった。
北条氏にとっては、沼田を手に入れたものの 目と鼻の先にある名胡桃城を真田に押さえられているのは、目の上のたんこぶであった。 沼田城代の猪俣邦憲は、城代・鈴木主水を、昌幸のニセ書状を使って岩櫃城におびき出し、 城将不在の名胡桃城を奇襲して奪ってしまった。これが「名胡桃城事件」だ。 主水は責任を感じて割腹。昌幸は事の顛末を秀吉に訴えた。
そして、これが秀吉による「総無事令」違反ということになり、秀吉はこれを口実として、北条攻めを決定する。 つまりこの小城は、秀吉の天下統一のきっかけを作った城ということになる。

この事件をモデルにして池波正太郎が短編小説「命の城」(新潮文庫”黒幕”所収)を書いている。


2007年10月13日

名胡桃城の由来 (現地説明看板)群馬県教育委員会・月夜野町教育委員会

明応元年(1492)頃、沼田城主沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。
16世紀半ばになり、利根沼田地方は上杉氏・北条氏等入り乱れ、戦乱の渦中にあった。天正6年(1578)に沼田城が北条氏の手に落ちたことにより、利根川左岸は同氏の勢力圏となった。これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点警護と沼田城奪取の前線基地として、利根川右岸にこの城をはじめ諸城を築城したものと思われる。また、この城の城代は、鈴木主水重則であった。
天正7年(1579)に、北条勢は二度に渡りこの城等を攻めたが、いずれも敗退している。しかし、その翌年、真田勢はこの城から攻め出して、難なく沼田城等を攻略している。その後、当地方の大部分を真田領としてほぼ手中に収め、この城は岩櫃城と沼田城の中継地となっていた。また、天正14〜16年(1586〜1588)の間、この城とその南側の山頂にある北条方の権現山(榛名峠)城は、再三再四対立していて戦闘が絶えなかった。
天正17年(1589)に、豊臣秀吉は北条氏の上洛の条件として、真田氏に替地をあてて沼田城等やその一帯の領地を北条氏へ渡したが、なぜかこの城だけは真田氏の要望によりその所領として残された。北条方の猪俣邦憲等はこれを不満として同年11月にこの城を攻略した。たばかられた鈴木主水は沼田において自害している。豊臣秀吉はこの報を受け激怒して、以前からの不信の念と相まって北条氏に宣戦、その翌年同氏を攻め滅ぼした。
この事件に関しては問題が複雑であるが、いずれにしてもこの城は、豊臣氏に天下統一をもたらし、当地方における乱世に終止符を打つことになった。小田原征伐勃発の口火を切ったことにより、記念すべき重要なものである。
その後、当地方一帯は真田領としてその支配下にあったが、真田氏の真田氏の沼田城安泰により、この城は廃城になったものと考えられる。

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