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大高城址

大高城址

大高城二の丸

大高城址 大高城址

本多忠勝の子孫だという歴女に遭遇          本丸虎口

2019年5月16日


現地案内看板 大高城趾(指定面積40,613u)付 丸根砦跡・鷲津砦跡

知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵上に築かれた東西約106m、南北32mの山城である。 室町時代、永正年間(1504〜21)に花井備中守によって築かれた者と伝えられる。
戦国時代、天文・弘治年間(1532〜58)の頃には、水野忠氏父子が居城していたが、はじめ今川氏に属し、後に織田氏についたため、 今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(徳川家康)が、織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。 元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまでいて、今川方撤退後に父祖の城である岡崎城に入った。
大高城は戦略上の価値を失い廃城となったが、元和2年(1616)尾張藩家老志水忠宗が城跡に館を構えたが、命じ3年に廃止された。
現在は、本丸・二の丸とこれを分ける内堀が良く残っているが、外堀土塁などは急斜面の地形を安全上の理由から改変し、昔の面影は薄い。 丸根・鷲津の両砦とともに昭和13年国の史跡に指定された。

名古屋市教育委員会

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