風来亭 フォト日誌
小牧山城址
小牧山城縄張り図
2019年5月17日
<現地案内看板>
史 跡 小 牧 山 昭和2年10月26日 国指定史跡
小牧山は、標高85.0m、面積約21haを測る。平野の中央に孤立する小山で、山頂からは濃尾平野を一望することができる。
永禄6年(1563)、織田信長によって小牧山城が築かれ、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の舞台となり、歴史にその名を残している。
信長は、永禄6年、美濃攻略のため清州城から小牧山へ移り、山全体を城域とし、多数の曲輪を設けた。
要所には重心の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたという。また小牧山南麓から西麓に城下町を形成した。
しかし、信長は永禄10年に美濃の斎藤龍興を攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となった。
本能寺の変の後、信長の後継者争いが起こり、天正12年、豊臣秀吉と信長の二男信雄・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣した。
小牧・長久手の合戦である。犬山城方面から侵攻し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉軍に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、
小牧山の東方に砦を築いて対抗し、持久戦となった。
現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ新たに土塁、堀を築くなどして改修された家康軍の陣城の跡である。
小牧山城の縄張は山麓と中腹の横堀で二十二囲い込まれる。中腹の横堀は、概して浅いか堀相当の平地の前面に低い土塁を配するものが多い。
山麓の長大な土塁と横堀は家康軍の改修の際に築かれ、秀吉軍と直接向かいあう東から北にかけて、
大軍勢を収容する幅広な帯曲輪と北の搦手口などの出撃用の虎口が築かれたと推定されていある。
史跡小牧山は現在でも各所に土塁や堀の跡が見られ、織豊期城郭を良好に保存した希少例として貴重な存在である。